いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

就職と引き換えに


外国からの移民受入を拡大する法案が通過した。で、ネットでは人道的・経済的観点からあまりに拙速な通し方について反対が次々と噴出している。中でも深い絶望に裏付けられた批判はいわゆるロスジェネ世代(就職氷河期世代)からの怒りだ。じつにもっともだと思う。私はその末期世代に属する。

失われた20年間、若者はそもそも就職の機会から弾かれていた。正規雇用を得ることは絶望的に難しく、家計補助の待遇でしかなかった非正規雇用、ルールの未整備な派遣労働に就くしかなかった。民間企業でどうにか正規枠を得られても、ブラック労働が待っている。だが
公務員、教員の採用数も絞られ、こちらも仕方なく臨職や非常勤で食いつなぐ人々が使い倒された結果いまや人手不足(教員はとくに免許更新制度のせいもあって、なり手不足)が叫ばれている。当然だろう。

そんなふうだから、とにかく職があるだけでもありがたいという考えが染み付いていても無理はない。非正規でも毎日行き場があり、働くことでしか得られない社会保障や、もっと言えば成長や社会参加の機会、承認にかろうじてアクセスできるならとにかく真面目に働こう、という心情の人も大勢いるはずだ。


今から9年前、私はほぼ駆け込みで約半年ほど街中の公務員講座に通ったことがある。現役生(卒業前の学生)も浪人生(就職浪人した既卒者)も民間企業からの転職希望者もいた。狭いコミュニティで息が詰まりそうだったが、資格取得をめざす受験生もいて(というかスクールはそっちがメインターゲットだった)、あれは閉塞感含めて良い経験だったな、と今では思う。

そこで仲良くなったある既卒女性は、東京23区の職員を目指して日々奮闘していた。何でもあちらに交際相手が居るのだとか。お相手のそばに居たくて、話がどこまで進んでいるのかはわからないけれどおそらく彼女としてはもう結婚と同居は前提で、あとはもう「スクール内に住んじゃうくらい」必死で勉強して彼のもとへ行くだけ、そんな張り合いがみなぎっていた。それを聞いた当時の私は、勉強熱心なのは尊敬するけれど何だか彼氏に依存しているようで、そんな動機はどうかなあ、だいいち受かって上京できても破綻する可能性だってあるのにと、半ば呆れたような感想を抱いたものだ。

でも、今ならわかる。彼女が求めていたのは彼も含めて親密な人間関係やそれを得る可能性であり、そういう人々と付き合いながら築く暖かな未来だったのだ。周り、とくに親世代は就職さえ決まればあとはどうにでもなる、食べていけるし車を買ったり家を建てたりもできるし一人前の証が得られる、と考える人が多い時代もあった。しかしワーキングプアという、働いても食えない人々が存在することが明らかになって、「働けば食べられる」という図式じたいが壊れ始めて今の体たらくがある。だから、仕事に自分を重ねる発想に見切りをつける人がいてもおかしくない。ろくに上がらない給与のために、たかだか月最低限の生活賃金のために、親しい繋がりも愛着もない土地にーそれが地元である場合だっておおいにあるー、仕事のためだけに住むなんて耐えられない。仕事ってそうやって得るものなのだろうか。私は現在そう考えている。

結局件の彼女は試験に落ちて、鉄道会社の契約社員としてキャリアをスタートさせた。その後どうなったかは知らない。付き合いも続いていない。彼女の地元に残ったのか上京したのか、どこか違う土地に住んでいるのか。いずれにしても自分らしく幸福でいてほしい。


仕事に就く機会さえ制限されて、最低限の職を得るために、仕事以外の様々な大切なものー親しい人間関係、恋人、人間らしい時間、休息の時間、家族を作る時間などーを手放した労働者も数多くいただろうこと。そうして得たポストが買い叩かれ、食べられない賃金に貶められ、人手が足りないから今度は外国人を沢山入れようとする。働かざる者人に非ずみたいな主張を垂れる人こそ、むしろ人たるに値しない条件に人を貶めようとしてあるように見える。

労働は生存の道具ー、生存資源を得るための条件にすぎない、そういう発想に立ち返ることも時に必要だと考える。