いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

わたしが生きている現実たち

祝福を。

新しい仕事に就いて一週間が経つ。通勤圏は前と打って変って、街はずれを行き来するせいか、あれほど煮詰まって嫌気もさした街中がちょっぴり懐かしい。

職場は人数からいえば結構大規模だが、事業ごとに部屋が分かれているのと、外部へ出払っているグループもあり、まだ顔を知らない人が幾人もいる。そこで皆、黙々と自分の仕事をする。

新しい職場というのは、業務以外にも覚えるべき慣習がたくさんあって、そっちのほうが案外神経を使う。たとえばゴミの捨て方、掃除の日とルール、休憩のとり方など。でもこれもゆっくり、徐々に慣れていくしかない。

ここへ来て、「選ばなかった世界」に思いをいたすことが増えた。それは決して、前の職場が恋しいとか戻りたいとかいう気持ちではない。だが直前の職場を含め、これまでの仕事や居場所を経験できて、心から良かったと思えている。

今している仕事は、帰郷して最初に就いた仕事に一番近くて、その時一緒に働いていた自分より数歳年上の先輩の大変さをあらためて実感する。今ついている上司はもっと厳しい状況で、事業の管理すべてを担当し、時折アウトリーチもやってきた人だ。私はこの人にまだ迷惑しかかけていないけれど、早く仕事を覚えて回せるようにする。

今年上半期はめまぐるしく居場所が変わった。前職ーそれもインフラにガタがきてるせいで色んな部署を行き来したー、派遣会社、幾つかの面接、職業訓練校。

実は、もしかしたら派遣で勤めていたかもしれない会社を電車から見下ろしながら通勤している。そこは始業が早くて私が通る時間にはすでに稼働中だ。ここへ勤めるんだったら今より一時間以上早起きして行って着替えて体操だあ、と、忙しなく働く人たちを眼下に収めて気持ちを次駅の職場へ向ける。

私にとって、現実世界とは今身を置いている場所だけではない。それでいい、そうすることが自分の生を力づけてくれることは、5月あたりに実感し始めていた。

職業訓練校を振り返って、もっと教室のお友だちと会話すれば良かったかな?と思う。一期一会の縁は貴重なものだ。でも私には、ともすればモラトリアムのおそれがある学校の空間以上に、休み時間にはSNSで海外から発信してくれる海外のお友だちの情報にガッついていた。教室には、同じ求職中のお友だち。スマホには、同じ問題関心をもつ遠くのお友だち。こちらでビワの実が色づく頃、あちらからは菜畑の映像が流れてくる。そうして国外に思いを馳せていると、同じ部屋の中には自らの前職やこれまでの身の上話が行き交い、人手不足で貧困化と高齢社会が進む日本の地方の現状がありありと迫る。

そのどちらも私が生きている現実であり、かけがえのないものだった。

通勤途中もSNSを開くことがある。先日は、ヨーロッパへ留学中のある方が現地の風景を撮り、日本の夏といかに違うか、でも日本の夏を知っていること、違いがわかることが何より愛おしい、という内容の投稿をしていらした。電車が滑りこむ前のホームには、まさにその方が思い巡らせたのと同じ夏空が広がっていた。

新しい仕事はまだ慣れず気持ちの上でしんどいけれど、空間や時間を共有していない誰かとの対話も身近にしながら歩んでいきたいのです。