いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

風薫る街より

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訓練は日のあるうちに終わるので、夕方はゆったり過ごせる。店内は少し冷房をきかせているものの、時おり開くドアから吹き抜ける風が心地よい。そろそろ勤め帰りの人で混み始めた車道に面したスーパーのカフェでこれを書いている。買い物や子どものお迎えに急ぐ人を私は窓から眺める。失業中で通学する身となった自分を、最近それほどダメだと思わなくなった。

写真は昨夕の散歩で見かけたビワ。あちこちで色づいている。この間麦を刈り終わったと思ったら今度は田植えが近づいている。ジャガイモの花が咲き、ナスの苗が植わり、カボチャや西瓜が葉を伸ばし、季節は確実に移ろうことを実感する。

少し前までは、自分の置かれた立場が厭わしくてならなかった。転職はうまくいかず資金だけ尽き、地元どころか実家に住み続けたまま雇用保険を受けつつ職業訓練に通うことに。前職の給与が安すぎたせいで失業給付の額もそれなりで、訓練受講による給付日数延長ゆえに働いてもその金額分を最終月に繰り越しできない。奨学金はだいぶ減ったけれど完済まではまだ少し遠い。

しかし、学ぶ機会にアクセスできたことは相当な幸運でもあると最近思うようになった。学卒後「順調」にやってきた同世代や、もっと不利な立場にある労働者のいったいどれだけが雇用保険の制度や賢いもらい方、職業訓練について知っているだろう。これもレールを外れて自ら動いたから得た成果なのだと今なら考えられる。

乗っていれば安泰が保障されるレールなどもう解体している。なのに、企業側に都合の良い労働マインドを植えつけるだけのキャリア教育、人材養成やOJTの負担を放棄したいだけの企業がまたぞろ求める即戦力、正社員信仰、もうオワコンな高度経済成長を前提としたライフコースの規範、それらに生産人口不足からくる労働強化と介護問題と子育て負担が若い世代にはのしかかる。


「学校Ⅲ」
https://search.yahoo.co.jp/video/search?p=学校Ⅲ&tid=31e0d01e6e895c2eb7bd00e93bd94700&ei=UTF-8&rkf=2&dd=1
が上映された2000年辺りに労働問題として耳目を集めたのは中高年のリストラだった。若者をめぐるニュースといえば学力低下やレジャーランド化した大学などで、若者の就職難や非正規雇用、茶番な就活はとりあげられず、消費の食いものとみなされていた。氷河期世代への仕打ちはネグレクトされた。その後新自由主義をベースとした構造改革の波により社会を覆ったのは自己責任論だった。

そこへ今ようやく、国策の失敗でもある大学院重点化にロースクールのことが話題にのぼりだした。とはいえ、問題に光が当たったところで解決の方途が見えたわけではない。これらもネタとして消費されていくのが日本の心性なのだ。

そんな世論だから、社会や世間が規定する属性や定義はもはや相手にしなくてよい。たとえばニートという語が日本に紹介されたのは2004年。以後、該当者にはほぼ蔑称として使われ、キャリア教育周辺では「ああはならないように」という対象として語られてきたように思う。でも今は、当事者が積極的な発信もネット上にはあり、少なくともオルタナティブを掲げる層はかつての否定的な見方をそのまま信じてはいない。

海外や国内地方への移住、拠点をいくつも持つこと、ノマドワーク、モバイルボヘミアン、脱社畜、隠居、複業、システムを降りること、環境を変えることー。私はこのどれかにあやかりたくて動き続けてきた側面がある。これらは画期的なことなのだが、今日のモバイルツール、SNSの発達は、いやそもそもインターネットの最大の利点とは、世界のどこに居たって同じ関心をもつ人と交流できること、遠くの情報を取れることではないのか。

自分が何者であるかは自分が決めてよい。たとえブラック企業に勤めてようが、体制に組み込まれていようが、滅ぶのが確実な日本に住んでいようが。そこへ居ながらにして、自分が関心をもつ分野や対象や土地、人の情報をネットで得る。SNSで軽いやりとりをする。そうして実際に肉体を置く場所での生活と、身を置くことはできないが関心のある別の場所への発信は、自分にとって等価となる。身を置くことのできないその場所も、自分にとって確実に日常の一部だ。

だから、都会よりもずっとゆっくりしたテンポで、どこか的はずれな間合いの人々が住み、ビワの熟しだした街角を走る今の自分も好いものだ。

毎日何か一つ、一歩でも。誰とも置き換えのきかない自分の生を豊かにしてゆく術を磨こうと、最近では心がけているのです。