ハローワークはえらい混みようだった。3月末で退職した人たちの失業認定日が集中しているのだろうか。立ち見者がいる位である。
私もその一人で無事手続きを終えた。
変わったことというのは、ない。なぜスーツ着て出かける日に限って雨なんだとか、良さげな求人を見つけ応募しようとしたら思わぬ制限があったとか、今さら振り返っても仕方ないが地元に居る自分というのが遮二無二許せなくて一切のやる気を失いかけたり。しかし今日、海外では注目する学者の研究で最新の集まりがあるとの報せを見つけて世界は広いのだ、数十円の時給と狭い日本の雇用事情など囚われるなと朝のトイレ掃除をしながら薄く開けた窓の日差しに思いをはせる。
なんで地元はどこへ行くにも動線が悪いのだろう。主要公共施設が中心街に集まっていないので何かのついでにふらっと立ち寄って情報を得る、ということができない。近いのは県庁市役所くらいで、運動公園もコミュニティセンターも職安もバラバラなところにある。JRと私鉄の駅は離れていて、それぞれ別のエリアを成す。
どうすれば、ここで生きていく覚悟みたいなものが生まれるんだろうか。高齢社会と生産人口の激減は全国で起きる、資金面を考えると一年はここ地元で暮らそうと、半月ほど前決めた(書いた)はずなのだが。
なんかもうふと気が緩むと自己否定の感情ばかり侵入してくる。仕事と介護に明け暮れる家族。言うことをきかない祖父母。シロアリが土台を食い破るように深刻な問題が蝕む社会なのに安穏としている周囲。
せめて一日のうち身の置き所を変えて移動するくらいしか煮詰まり回避の術を思いつけない。
例の奨学金返済方法はぶじ変更できたようなので、あとは融通をきかせて毎月決めた額を返せばいい。
で、それが終わったあと自分に残るものをいちいち問わない。自分や家族や国家がどうなっているかわからないのだから。
夜が来て急に冷え込んだ道を自転車で帰る。水路のほとりにドクダミのつぼみがのぞく。パウル・クレーの《夜の植物の生長》という絵を想起する。ほぼ無限と言えるほど多様な姿や可能性をもつ世界にあって、一人の人間が偶然、その場その時にその身を通して発見する一瞬の光景が無比であること。そうしてそれを見いだした自分という存在がまた、置き換えのきかないユニークネスな世界を開示することを、心に留めておきたいのです。
写真は明るい人参の葉。麦畑を撮った近くで数年前、惹かれて写メに収めたものです。