いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

連帯、居場所と別のしかたで

祝福を。
職場は次年度更新の話題が持ち上がる時期になった。これまで通りよろしくお願いします、を雇われる側と雇う側の双方が前提しているケースは良いのだが、そんな人ばかりではない。「もっと条件が良い職場に行きたい、でも自分の年齢や経歴では難しい」という人が私と同部署・同身分では大半である。

とはいえ部署じたいはギリギリの人数、いやすでに人手不足なのでなかなか「辞めたい」とも言いにくい。雇う側はともかく、同じ雇われる側で変な監視や引き止めの言動がチラつくのは、誰かが辞めればしわ寄せが確実にくるからだ。「(辞めても)行くとこないよ」「その歳ではこれこれの仕事しかないよ」という世間の代表のような脅し。「こんなブラック企業、いつまで居るんですかね〜」とボヤきながらもその人はそこに居ることが、そこで何とかやっている自分が好きだから残っているのだと、いわきびにはありありと判る。

別に悪く言う気はない。激安賃金だろうが働くのはお金のためだけではない、という考えの人は世の中に多勢いるからだ。そういう人は、職場に確固たる自分の居場所を感じているのだろう。身分なんか正社員じゃなくてもいい、会社の調整弁で担当業務をコロコロ変えられても、仲間が居て、その仲間や正社員たちとたわいもない会話を交わしたり休憩を共にするのが大切だと感じるのだろう。

が、いわきびはそうではない。これまで経験した職場はわりかしホワイトだったせいだけでなく、私は職場と自分とを重ねる心情や価値観が嫌なのだ。働く場の人間関係は良いに越したことはないし、業務は断然その方がやりやすい。だが、そのために関係を作る努力ー雑談や休憩昼食の共有、呑みニケーションやお土産お菓子の贈答ーが必要だとは思わない。そういうことは経済面感情面で負担になるし、公私の切れ目がなくなってゆく。かつ、それらをするだけの賃金や待遇を受けているかというと正反対である。そして、いまや大半の労働者が正規も非正規も破格の待遇で働かされている。

労働の場はかけがえのないコミュニティである、働く仲間との連帯は尊い、という前提が20世紀の労働組合にはあったと思う。それは正社員・男性中心で決して全労働者をカヴァーする組織ではなく、ベア中心、物取り主義などと言われもした。しかし、労働争議において経営側に対して守ろうとしたのは労働者たちの賃金だけでなく、一労働者の居場所でもあった側面があると思う。むろん、戦後日本では社員の福利厚生を企業が代替していたから、雇用を守る闘争は文字通り生活を守ることだった。けれども、日本型雇用慣行のハシゴを外してみれば、理不尽な扱いを受けた労働者が「連帯」や「闘争」を通して同じ職場に居続けることの価値や意味は、かつてほどではなくなったのではないか。福利厚生さえ付けば、別にその会社じゃなくてもよい、雇用形態は正社員でも直雇用でなくてもよい、と考える労働者は現代ならけっこういるのだ。

ひるがえって、グローバル経済下では色んなもののアウトソーシングが進む。派遣労働もこの一例だろうか。これを、断片化、砕片化とみなす視点もある。でもそこには、企業や国家や地縁を越えて、その傘下から外されたり外れたりしたたんなる個人の一群がある。企業、国家、家族という近代社会を支えた主要な単位はもうとっくに多様な個人を包摂し切れていない。

勝てる市場がどこかは分からないけれど、勝ち負けの視点もやがて手放せる地平に生きてる間にたどり着きたいと思ういわきびでした。