いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

意志あるところ

where there is a will,there is a way.
「意志あるところ道はあり」というこのことわざは、日本語ではよく「志あれば道は開ける」と訳される。夢を叶える秘訣として、最近では引き寄せの法則やスピリチュアル関係のサイトで沢山引用されている。

スピリチュアルと聞けば宗教がかった雰囲気があるので神とか超越的なものが語られるのかと思いきや、そこでは「自分がー自分の意志やイメージが、現実を作り出す」「あなたは自由に未来を作ることができる」という内容のことが書かれていて興味深い。

だが人間の意志などというものが、これほどポジティブに語られること自体、現代という時代の特徴の反映である気がする。そもそも古代において、至善の神が創造したはずのこの世界に存在する悪の起源とされたのは、人間の自由意志だった。

それが、ルネサンス等々を経て近代では一変する。私たちは、絶対的超越的な何か以外に、自己の内面の光に目を向けるようになった。

近代的主体概念は人権思想をはじめ数々の有用な資産をも残した。しかし、近代の自立観、能力観、私的所有にねざした自己と他者の見方は、視線を自己の内面へと閉ざし、自己への埋没に到るのではないか。

いまの日本社会で自己責任論がこれほど強固に隅々まで行き渡り、生活の破綻しかけた人をも苦しめている原因のひとつには、無宗教の一般化があると思う。意のままにならない・制御できない現実、圧倒的な他者性として迫ってくる事象と柔軟につきあうには、現実生活のあらゆる局面で自己制御を前提とする発想ではなす術がない。そうした発想を育てたのは戦後日本の教育システムだった。「がんばれば誰でも百点とれる」という能力-平等観を土台に大衆化した学歴主義と、企業中心社会がうまく連結して、経済成長と繁栄を可能にした。が、それが90年代以降もう解体していることは、今のアラフォー以下世代なら肌でわかるはずだ。

ITC革命以後、技術の発展は現実世界に可能性の幅を拡げた。他方、3.11以後の世界は再び神義論にかかわる問題ー多くは人権を巡る問題ーを突きつけている。

もし人間が、絶対的なものからの解放を果たしたとして、その先に直面するのが、世界と向き合い交わるための技術や意味づけの源泉を、自らの内面にしか見出せない貧しさであるとしたら。意志も、想像力も、自己や世界への意味づけ、表象なくして生きられない存在である人間が、自己理解、世界理解を全うするためのやむを得ない行為だとしたら。

世界と折り合いをつけ生きるに足るものにするためには、制御の及ばない領域、予測不可能性、偶然性といった〈他者〉にまつわるテーマを考える枠組みを、これまでのものと組み変える作業が要りそうです。