いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

「つくる」という楽しみ

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祝福を。写真は今夜の夕飯です。黒豆金時豆、かぼちゃ以外は久しぶりに自炊。ここ最近は同居両親の都合で、親の主導権で料理がなされておりましたが今日は父は泊りがけ外出、母多忙ゆえ。

それは良いのだが、あまり久々でかつ疲れていると段取りがメチャクチャになる。

家族同居の者は、自分がしたことではない家事の後始末から始めねばならないことが多い。まず、流しの食器ーそれも炊飯器の釜、昼食の土鍋ーを洗う。水切りカゴには前夜食べ終えたカレー鍋と片手鍋、朝食のパン皿があるのでそれらを拭いて仕舞う。

次に、米を研ぐ。新米古米合わせて三合ほどを仕掛け炊飯器へ。

ここから御菜の味噌汁作りに入るのだけれど、なぜ味噌汁かというと先日SNS土井善晴先生の提案を見たからです。一汁一菜でよい、という理に適った教えに従い、明日の弁当のことが頭をよぎったがこれはまあ余力があれば出来合いの御菜でも焼くかと思い作ることを断念。

具は…何がエエかな?冷蔵庫の半端な残り大根と玉ねぎ、豆腐、丸ごと人参、揚げ、そうだ前に叔父からネギを袋一杯もらってたんや、コレ入れよう!ネギの味噌汁は温もるよ、と大体の構想を練ってまな板を出す。

が、鍋に水を張り切り昆布を入れ、野菜たちを手元に出してからあることに気づく。ネギの袋から、傷んでドロドロに溶けた葉を取り除かなくてはならない。もともと畑から無造作に抜いたものなので、萎びたハコベや他の草も混じっている。それが中身の半分である。私はほんのひと手間のつもりでネギを取り出し病葉を剥きちぎり流しのゴミ袋へ。外側を向けば新鮮な葉が青々と顔を出す。数分経ち判ったことは、傷んだ葉をピックアップするよりも、袋からまともな葉を選り抜いた方が早いこと、そしてその作業を今やれば夕餉の支度は 中断するだろうことだった。私は今使わないネギには手を着けるのをやめ袋ごと冷蔵庫へ戻す。

さて鍋は沸き、他の野菜を切り入れる。豆腐も掌の上で切るものの、静かに鍋へ放つのが難しい。つい動作は固くなり汁が飛び散る。
ようやく中身が煮え、いよいよ味噌を溶く段へ。うちでは甘口と中辛の味噌をブレンドする慣習なので、二種類を冷蔵庫から出す。

と、ここで茶碗一杯の冷やご飯が目に入り、ご飯が炊ける前にこれを食べようと温めるべく電子レンジの中を開けたらそこがまた汚い。ガス台周りとかこの手の掃除は賽の河原積みと同じでやってもやってもすぐ汚れる。これを濡らしたキッチンペーパーで拭いているうちに味噌汁の鍋が吹いてきた。私は慌てて火を止め味噌の袋を開け、味噌こしを使う。この味噌こそタッパーか何か適当な器に入れておけばよいものを、多忙を理由に袋の切り口を丸めて輪ゴムで留めただけだから出し入れがしにくい。

こうして味噌汁は卓上に上る。が、食べてみて気づいたことに、ネギだと思っていたのはワケギだった。道理で辛味がなくキュッキュとするわけである。それでも麦味噌にワケギの汁物も好いものです。

家事は、特に料理はどこかに自発性ー自分の采配や段取りが活かせなければ苦行にしかならないないだろう。上記の過程でさえ自身で楽しむことは可能だ。しかし、素材を意のままに制御することだけが料理の喜びでもないだろう。期せず成るあるいは現れる何か、意のままにならない何か、抵抗でさえある素材の反応に見出す驚きと喜びは、ものづくり全般に言えると考える。

人間の制作は神の創造とは異なるが、全知・全能・至善(全てを見通し、なし得、善のみを行う)の神でさえ、自らが創造したものを「実にもいと良かりき」と喜ぶ。神の本懐は知り得ないにしても、何かを作り出す側にはきっと何らかの予測不可能性や偶然性に基づく、あるいはそれらを見出すことによる楽しみがあるのでしょう。