いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

裾野は層を圧し上げる

 少し前に、仏検が存続の危機に直面しているというニュースを知った。

【緊急】「仏検」存続のためのご寄付のお願い | 仏検のAPEF/公益財団法人フランス語教育振興協会

 
 やはりCOVID-19の影響で試験の開催中止による大幅な事業収入減が影響している。が、この十年続く受験者数の減少も効いているらしい。

 この知らせに対してTwitterではこうした検定に「もともと使えない」「なくてもよいのでは」などという声が上がっている。
 仏検に限らず英検、TOEICほか「日本国内でしか評価されない」語学検定はかねてからやり玉に上がってきた。むろんこれらで高得点を上げたからといって現地での円滑な意思疎通や意味しない。海外留学・就職には英語でもそれ以外の言語でも基準とされる試験が課されている。ドメスティックなガラパゴス検定を批判的に見る人たちは実戦に使える評価を基準に考えているのだろう。

 だが語学試験や語学学習は留学や就労、現地移住目的でなければ意味がないのだろうか。現地へ行く予定もなければ何らかのビザ取得を考えているわけでもない層にはどんな人がいるのか目に入らないのだろうか。

 「使える」語学試験はそう気軽に受けられない。たとえばIELTSなら1回3万円近く受験料がかかる。受験会場も大都市圏がほとんどで、辺鄙な地方に暮らす人にとってはそこへ行くこと自体かなり時間的経済的負担がかかる。だから上記の検定は手軽なスコアチェックとしての用途も兼ねているだろう。

 それに検定試験や資格が「幅をきかす」度合は主催団体が置かれたパワーゲームや雇用・市場状況に左右され、純粋にその中身で価値が検討されているとは言い難い。

 母語以外の言語を学ぶことは自分が根を下ろす生活圏以外への扉を開いてくれる。異なる言語で情報をとり、文献を読み、異なる文化や土地の人とコミュニケーションする回路が与えられる。それを素晴らしいとも豊かだとも思わない人たちの主張には、新自由主義改革で叫ばれた「選択と集中」の理念が伏在している。

 けれども留学や仕事とは無関係に楽しみで学ぶ人々がいなくなれば、学習者の層は一気に脆弱化する。この傾向は語学検定に限らない。

 スポーツなら競技人口ガタ減りの種目に大物選手は台頭しないだろう。
 学術研究なら趣味・知的関心を契機に学術書にアクセスする層が消えたら学問は担い手・支え手ともに消失する。それは在野研究者がアリかナシか以前の問題だ。

 知的文化的情報や機会が平等に保障されるべき根拠となるのは、辺鄙な地や貧しい層にも天才が埋もれているかもしれないから、ではない。ある領域に多様なレベルや目的の者が多数存在すること、その裾野の広さが担い手と支え手を拡充し、その領域の層を圧し上げるからである。

 このブログは地方暮らしの生きづらさをつづることも目的のひとつになっている。コロナ災害をきっかけに始まった遠隔授業や公演・試合のオンライン配信が、どうか機会を閉ざされてきた層へのアウトリーチとなることを心底ねがう。
  

食を考える映画たち~amazon、Netflixにて視聴可~

 STAY HOMEで自炊にハマったり日々の食事を見つめ直すことになった方も多いかもしれない。そこで、COVID-19がどうなろうと続いていく日常の食について再考する情報を与えてくれる映画を紹介する。


 2004年公開の「スパーサイズ・ミー」
Amazon.co.jp: スーパーサイズ・ミーを観る | Prime Video

でおなじみモーガン・スパーロックによるドキュメンタリー。

スーパーサイズ・ミーホーリーチキン」

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 今回はスパーロックが自らチキン料理のファーストフード店を立ち上げ、その過程で食肉・ファーストフード業界の実態に迫る。私が見どころだと思うのは、今日の自然志向・健康志向が広告業界のキャッチコピーによる印象操作にすぎないことを仔細に示すシーンだ。ヘルシーさを求めているように見えながら、客はグリルよりフライドなチキンを食べたがる。油で揚げたものは不健康というイメージにもとづき、チキンを「フライ」ではなく「クリスピー」と呼ぶたくみな言い換え。ホルモン剤フリーは殺処分後の処置に対してだけ該当すること。本編で明らかにされる「放し飼い」の定義には拍子抜けしてしまう。

 なお、上記の鶏の飼育法を含め、食肉産業の機構や農産物生産がもっとシビアかつ広範に示されているのが「フード・インク」。
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食品業界を支配しているのがたった数種類の穀物であること。それが家畜の飼料となり草食動物である牛の胃腸内で異変を引き起こし、O157の被害が拡大したこと。コーンから作られる高フルクトース・コーンシロップがあらゆる食品に行き渡っていること。食肉加工や作物収穫に貧困にあえぐ不法移民労働者の使用が構造化していること。硬派な作品を観たいならこちらもぜひ観てほしい。

 ほかに日常飲料の矛盾を突いた映画として「おいしいコーヒーの真実」がある。
Amazon.co.jp: おいしいコーヒーの真実を観る | Prime Video


 また、Netflixでは「食品産業に潜む腐敗」が網羅的で役に立つ。

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なぜ一つの食材を契機として町に武装した人間が配置されるのか(「アボカド戦争」)、巨大資本がある土地の収奪と労働者の搾取をどれだけ構造化するか(「甘い汁」)、食をめぐる市場とは誰も無関係でいられないことを知らされる。


 以下の作品は未視聴だが、忘備録として挙げておく。

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 一般に流通している食品がどう作られ、どんなシステムで自分のもとへやってくるのか、その過程が遠くの誰かの生存基盤を掘り崩していないか。知ることはより良い善い生の第一歩である。


 

そこに不在を感じるから

 COVID-19感染対策の一環で、仕事や学業をはじめ生活においてオンラインによる交信はいまや不可欠となった。youtubeなどの動画配信、ZOOMやSkypeといった映像の同時通信、メールなどテキスト通信等、タイプはいろいろだが一つ留意が必要だと考えている。

 それはこれらのコミュニケーションは対面通話とは全くタイプがちがう手法であり、もたらされる感触も対面通話に期待するものの代替にはならないということだ。接触感染を避けるためになされるオンライン通信は、何らかのメディアを介したやりとりである。とくに映像をともなうやりとりは対象者の身体性が置き去りにされるか、対面通話なら問題なく把握し得たはずの身体性に変化を与えずにはいられない。

 

 かつて親友のアパートで見た奇妙な光景を思い出す。彼女は当時、半年以上同棲していた彼氏と離れて暮らし始めたところで、部屋にはちょうど彼の顔写真が一枚飾ってあった。ツーショットでなくいわば肖像写真のように胸から上を写したそれは、私には何だか遺影のように見えたのだ。彼女としてはそれまで同じ部屋にいたはずの彼を少しでも身近に感じたくて、手元に写真を置いただけだろう。だがその彼というのは同じ市内に住んでいて、学業や仕事で多忙をきわめるといえど会おうと思えば週イチペースで会える距離なのだった。

 

 イメージはつねに対象の不在を前提としている。愛する者の姿を写真にして手帳やペンダントに入れたりデスクに立てたり、携帯電話の待ち受け画面に登録したりすることは、たいてい物理的に離れた相手に対してする行為だ。勤務先のデスクや出先から家で待つ家族の画像を見る。単身赴任や遠距離恋愛ですぐには会えない相手をメディアを通したイメージで把握する。あるいはすでにこの世にいなくなった相手を写真や映像に納まった姿から思いをめぐらせる。相手が手を伸ばせば触れられる距離にいたり同じ空間を共有しているときに、相手を差し置いて実物ではない相手のイメージに見入ったりはおそらくしない。

 

 ビジネスやたんなる所用で関わる相手ではなく、特別親しい関係をもつ相手とはZOOM等を用いた映像の同時やりとりに違和感を抱く、という声がSNSに散在する。おそらくその原因は、イメージを介したオンライン交信が相手の不在をいっそう強烈に認識させるからではないか。ビジネスライクな関係ではない、特別な親しみや価値をもつ交わりであればこそ、そのやりとりに身体性が不在であることで何が欠けるのか、何を意識して工夫を付け加えるべきなのかを真剣に考え具現化していかなくてはならない。

 

 

シームレスであること

 

 埃というのは凹凸のあるところに溜まる。表面がデコボコで段差のある平面は汚れやすい。清潔を保つにはしょっちゅう気に留めて掃除しないといけない。

 

   この凹凸はモノが増えるとおのずとできやすい。またタスクをたくさん抱えた状態でもそうなりやすい。とりあえず取っておく、引き受ける、放置する、そして時間がたちモノとモノの間に埃が溜まっていく。

 

 モノが増えると手間も増える。食材でも衣類でも情報でも。「何がどれだけあってどんな状態か」を把握・記憶し、良好な状態を維持する労力が在庫管理の内実である。だから、試行錯誤のはてに各々自分に見合ったモノの適量とその維持コストを知って実践することが快適な生活のコツとなる。

 

 モノの量以外に一般家庭に多く、かつ皆が無自覚だと思われるのは、不要な段差だ。室内に敷物がやたら多くないか?椅子のキャスターはその段差に動きを制限される。局所ごとにマットを置くとつまずきに注意が必要で、スリッパの上げ下げや着脱も神経をつかう。アルミサッシ窓枠の部屋や隙間風だらけの木造家屋ですごす冬には、「部屋全体を暖める」という発想がないとコタツや火鉢や湯たんぽといったアイテムばかり増えていくことになる。

 食卓を彩るはずのランチョンマットもテーブル上に段差を作る。献立が多ければマットの中にそれらを収めるために食器の配置に気を配らなければならない。生地によっては汁椀の底がひっかかることもある。食卓に変な枠ができてしまい、まるで何らかの制限を課されたようだ。

 

 STAY HOMEであらためて自分の暮らす部屋の仕様に目が向いた人もいるだろう。加えて在宅で仕事をするなら、家の中をいかにストレスフリーな環境にするか、室内で自在に行動できるかが要となる。これは自尊心にも直結する。

 

 ネットはもともと距離という物理的制約を超えて人々をフラットにつなげ得るツールだ。人との間に余計な垣根を作らずにすむ使い方が可能だ。

 

 物理的にも心理的にもシームレスであること。内も外もそうすることが快適への第一歩である。

 

 だから、何かを取り除くことによって何もない空間を作り出す。

 何をするかよりも何をしないかを注意深く吟味する。

 行動しない。それよにって、空間を回復させ、潜在力を状態を整える。

 

 今回のコロナ禍では、人間の経済活動の停止が自然環境の回復に効果的なことが証明された。社会生活においてもこれまでの過剰をそぎ落とし、シンプルでより善い生存を実現していけるはずだ。

 

 

名前のつかない役割

 
 母の勤める飲食店が休業になってもう1ヶ月半がたつ。突然ぽっかりと現れた空き時間の初期に、母が着手したのは自分の衣類の断捨離だった。

 同じ法人が運営する複数店舗の飲食店へ勤務している母は、平時なら毎日2店舗の配食と食材発注をこなしている。しかもその2店舗ではそれぞれ異なる服装が指定されており、1つ目の店は白無地のシャツ、2つ目の店は黒無地シャツと決まっている。エプロンや帽子は職場で支給されるが、その下に着るTシャツは自腹で用意することになっている。毎日厨房で汗と油にまみれる仕事だから当然洗い替えがたくさん要る。母の衣装ケースを圧迫していたのはまちがいなくこの仕事着である。

 とはいえ今回捨てたのはこれら仕事用の服ではない。ほとんど私服である。ストレス発散で買ったがもう着ない服、着たおした服、お出かけ用にも部屋着にもいまいち不便で使えない服ー。そうやっていろいろ処分しながら母は気づいたという。


 普段着がない。「お母さんは普段着というのをあまり持っていない」。


 無理もない。平日の勤務形態は、昼食時間帯に3時間ほど1つ目の店で働いていったん家に帰り、夕方17時から2つ目の店へ出勤して22時半まで夕食時ラッシュを切り盛りするというものだ。家事はこの合間に行い、家の中にいる以上かんたんな部屋着数枚で過ごしていたのだ。自家用食材は週1回の宅配と、父が気晴らしを兼ねてしょっちゅう行くスーパーへの買い物で十分間に合っている。祖母の介護へ通っていた頃も当初ふさわしい服を決めるのに悩んだものの、手持ちの外出着から動きやすい服装を選んでそれを通していた。介護が終わってから土日に友人と街へくり出すお出かけ着は、それまで服を買うのが大好きでたくさん買った外出着からお気に入りでキメていた。問題は、今回のSTAY HOMEで文字どおり「家にいる」ためだけの服装がないことだった。

「こういうの、どういう服装って言うの?普段着?パジャマとは違うしー」
 母にそう聞かれて私もそういえば普段着の定義って何だろうと考えてしまった。いくら家の中にいるだけと言っても庭掃除やゴミ捨てで外へ出ても恥ずかしくない服、宅配業者など突然の訪問にも堪えられる服、ちょっとした日用品を買うために近所のコンビニやスーパーへ行ってもまあまあおかしくない服ー。普段着とは、パジャマ同然のルームウェアからその辺へ買い出しに出ても違和感のない服まで大いに幅がある。

 そう考えると、普段着にはいくつもの役割が詰まっている。その大半が家事にまつわる事柄であり、加えてその中でも名前のつかない家事の比重が圧倒的に大きいと思われる。料理、洗い物、洗濯、掃除など行為に名前のつく家事ならエプロンなど決まった衣類を身に着けることもあるだろう。しかし家事には資源の補充やセッティング、後片づけ、家族や血縁者・近隣住民たちとの関係調整が含まれていて、その役割に細かい名づけはなされない。

 仕事なら、たとえ制服が指定されていなくても仕事用の服を決めている人が大多数だろう。仕事をする時の服は仕事着と名づけ得る。庭仕事、畑仕事、日曜大工、その他DIYをする時の服は作業着と呼べる。人目のある場所や街中へ行くなら外出着・訪問着。でも家に居る人は?

 かつて女性の人生において規範であった「主婦」という言葉のなかには、名前のつかない役割が無数に託しこまれている。そして市場経済の目に見える表層部分を支えているのはこれら名前なき無数の役割であることが、普段着なるあいまいな言葉を通して見えてくるように思う。
 

新型コロナがただす他者との距離

 「新しい生活様式」が発表されてしばらく経つ。あれを「生徒手帳みたい」という巧みなたとえがツイッターに投稿されていて、じつにその通りだと思う。

 

 あそこに列挙された項目を全部実践するのは難しいだろうが、ソーシャル・ディスタンシング(Social Distancing)あるいはフィジカル・ディスタンシング(Physical Distancing)—感染防止のために人との距離を開けることーは防疫上やったほうがよい。というか、そもそもこれまで私たちは他者と適度な距離など築いてきただろうか。

 

  日本人はキスやハグなどスキンシップの習慣がない一方で、他人と適切な距離をもうけることは精神的にも物理的にも全くできていない。精神的・心理的距離の未熟さの例は次のようなものがある。自己と他者の区別がつかない、自分を組織を同一視する、近しい他者(同僚、後輩、目下の者、年下のきょうだい、子どもなど)を自分の心身の延長のようにとらえ所有物のように扱う、自分とまったく異なる心身と歴史をもつ他人に対して「察しろ」「常識だろ」と自分が経験する感覚世界が地続きである前提で圧力をかける。

 いっぽう物理的距離の面では、身体接触をともなう行為の大半がセクハラ、パワハラ、虐待と紙一重である。少し間違えばかんたんに不適切な接触にシフトしやすい。とくに大人が子どもに対して、男性が女性に対してする身体接触は驚くべきことに「何をしてもよい」かのようなふるまいが多い。子どもに対しては「判断力が未熟だから」、女性に対しては「愛しているのだから」を言い訳に身体的暴力が平然となされている。

 

 せめてプライベートゾーンを守ること、良いタッチと悪いタッチの区別くらいは大人なら学んでおく必要がある。

 

いいタッチわるいタッチ (だいじょうぶの絵本)

いいタッチわるいタッチ (だいじょうぶの絵本)

  • 作者:安藤 由紀
  • 発売日: 2016/02/20
  • メディア: 大型本
 

 

 ほかに日本社会で侵されている他者との相互距離はなんだろう。

 プライバシー。人が安全に暮らすためには最低限必要なものなのに、子どもには保障されないことが多い。とくに地方では。

 パーソナルスペース。これは日本の劣悪な住環境と満員電車であっさり踏みにじられてきた。

 

 どうか、これを機会に決して他者を侵すことのない適切な距離が私生活においても構築されていくことを切にねがう。 

 

 

住まいは命の器である

 
 コロナ危機に対応する支援のひとつに、住居確保給付金がある。以下「厚生労働省 生活を支える支援のご案内」より。


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 もともとはリーマンショック時の失業者支援から始まったものだが、今回それが改正されて4月30日からはハローワークへの求職申込が不要となった。これにより、フリーランスの人も利用しやすくなった。

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 新型コロナウイルスの影響はあらゆる業職種・地域・立場の人におよんでいる。感染対策として世界中の国々が、程度の差はあれ経済活動を停止あるいは縮小してきたのだから。今はいつも通り仕事と収入があっても、数か月後には勤務先が連鎖倒産のあおりを受けたり、取引先の資金繰りが間に合わなかったり、物流の変化によって事業が停滞したり、いつ誰が困窮しても不思議ではない。

 生活困窮者への支援というと食料配布を思い浮かべる人もいるだろう。もちろん各地でフードバンクが動き、母子世帯に食料を届ける子ども食堂もある。しかし、生活に不可欠な衣食住の中で「住」だけは日本の政策の中でかなり遅れており、また個人がボランティアで支援しようにも限界がある分野だった。それが今回のコロナ災害でより明確になった。

 STAY HOME!と呼びかけられてもHOMEのない人たち。
 HOMEで自らの心身が安全でない人たち。

 ホームレス、家庭でDVや虐待を受ける女性たち、子どもたち。

 そこへもってきて給付金が世帯単位で世帯主に支給される?

 人間をとことん個人として尊重しない、家父長制・家族主義の弊害がここにきわまれる。


 家は、ヒトを詰めておく収容所ではない。収容所だと考えているから、無料定額宿泊所や災害避難所が劣悪な環境のままなのだ。

 家は、個々の命を保護するシェルターとして、身体生活機能の延長として、物理的社会的に個々人の居場所としての機能も持つ。

 
 プライバシーと個人の尊厳を守るなら、宿泊支援も個室がよいはずだ。まして感染症対策の一環ならだんぜん個室がのぞましい。
つくろい東京ファンドでは、個室シェルターの増設に動いている。

新型コロナの影響で住まいを失った方を支えるため、個室シェルターを増設します!|つくろい東京ファンド



 所持金が10万円を切ったら生活保護申請も検討してほしい。最低生活費を下回ったら誰でも受ける権利があるだから。

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