いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

ユニクロチラシに嫉妬した話

 コロナ拡大を防ぐために自粛していた経済活動も、地域によっては徐々に緩和の兆しがある。ただし、在宅勤務を続けられる会社は続け、すべての店は引き続き三密を避け、何をするにせよ人を大勢集めることは当分させない方針だ。

 この在宅勤務、大都市圏では2月からなされていたようで、先月連絡をとった東京住まいの友人は通勤がなくなった分快適だと書いてきた。私はその間ずっといつもどおり通勤を続けていた。在宅勤務うらやましい、あれこそ今必要なことなのに、内勤なら上の決断でできるかもしれないのにどうして⁉と煩悶しながらだ。そりゃ仕事があるだけマシと言われたらまったくその通りなのだがそういう問題ではなく...。

 自宅では新聞を取っているので広告も一緒に入ってくる。スーパーの食品も家電もとにかく在宅期間を有意義に過ごさせるための売り込みをかけている。その中でユニクロはたしか「おうち時間を快適に」とかうたってルームウェアを売り出していた。たんなる部屋着だけでなくおそらくは在宅勤務用の、web会議の画面に映っても恥ずかしくない普段着だと思う。そういえばSNSの情報では、テレワークで自分を映すときは上半身だけまともに映ればよいため、本来セットのはずのボトムスを差し置いてビジネスシャツやジャケット等トップスがやたら売れているらしい。一時期は安い服の代名詞みたいに扱われていた大手アパレルも、コロナ以後新たに出現した環境条件への適応戦略の一つをやっていることになる。こういうのも機能的なデザインを考え、販売戦略を練り、顧客行動を想定し、広告を打つまでに「時代の最先端」を把握した精鋭人員が関わっているはずー。半月前までは勝手に想像して、今の自分が時勢に取り残された気がしてならなかった。

 まあユニクロはもとからルームウェアやインナーを売っていたし、欲しい服があれば買えばよいだけなのだが、追いつめられると何を見てもネガティブな感情に結びついてしまう。今でこそ新規感染者数が抑制された(発表した数字上では。検査数は県によっては検査拒否といってよいほど少ない)ものの、先月の今頃は外を歩くのも戦々恐々だったのだ。

 だが考えてみれば、テレワークできる労働者はそういう職種で正社員で、やっぱりごく限られた人たちなんだろう。在宅勤務じたいネット環境や機材、清掃、衣食住ふくめインフラ整備に携わる業種の人がいてこそ実現する。その人たちはどうしても現場へ行かないと作業ができない。

 エッセンシャル・ワーク(Essential work)か、ブルシット・ジョブ(Bullshit job)か。むろん後者は資本主義の虚飾が剥がれると同時に凋落するのが望ましい。が、その線引きをする目線もまたどこか高踏的で、ブルシットな仕事を担う大半がアクセスを妨げられているスキルアップや学歴取得の機会を本当に整備する気があるのかと思う。産業・就業構造の変化が必須なら、現行資本主義に対抗してグリーン・ニューディールを作りたいなら、まずリモートワークできない業職種の人たちに手厚い賃金と社会保障が必須である。

 こんな時だから、社会はしょせん呆れるほど多様な属性や背景をもつ人々の寄せ集めであることを思い出さなくてはいけない。

 
 

自己完結の館

 新型コロナウイルスを封じ込めるためにロックダウンしていた都市が、徐々に封鎖を解き始めた。日本とちがい、罰則や罰金を伴う厳しい外出規制が緩和され外へ出られた人たちの喜びはひとしおだろう。

 しかしたとえ封じ込めに成功した国でも、コロナ感染拡大前と全く同じ生活を送れるわけではない。げんにあれほど検査・隔離を徹底した末コロナ禍を克服したようにみえる韓国でも、これまでとは異なる日常生活の注意点を細かくガイドライン化している。一方ろくに検査をせず、補償を伴わない自粛要請をダラダラ続けた日本は結局5月31日まで緊急事態宣言を延長することが決まった。

 これと同時に専門家会議は5月4日に「新しい生活様式」を提言した。
 
www3.nhk.or.jp

 「誰とどこで会ったかをメモにする」など、感染経路の追跡を口実に個人情報をかすめとって私生活統制を仕掛けているようにも見えるのだが。

 専門家会議は信用ならないが、ここに列挙された注意を守らないとたしかに感染リスクがある。ただ現実問題として、国がきちんと強制的に制限をかけないと満員電車も通勤も店が混む時間帯も変わらない。個人や家庭、企業ごとの責任では対応できないことだ。緊急事態宣言は当初5月6日までだったことから7日から営業を予定していた飲食店も多いはずだが、これでは経営維持のために再開する店、これを機に事業をたたむ店が増えるだろう。


 いったいこれからはどんなライフスタイルが有利なのか。自分なりに想像してみる。

 なるべく人と接触しないことがのぞましいのだから、仕事は在宅勤務できる職種・業種が有利だろう。するとデスクトップパソコンとリモート可能なノートパソコン、タブレット、プリンターの所有が必要になる。

 快適なテレワークにはそれなりの部屋が要る。ワークスペースとして機能する机と腰に負担をかけない高性能の椅子も。戸建てなら仕事部屋とそれ以外の部屋が分かれているほうが都合がよい。

 移動は、公共交通機関(今地元ではかなり空いているが)の感染リスクを恐れるなら自転車か自家用車になる。でも自家用車は購入・維持費に莫大な資金がかかるため、マイカー生活は経済的余裕がなければ始められない。
 
 対面通話はしばらく危険なので、教育・学習はオンライン授業ができる環境の整備が急務だろう。ただ幼い児童にはどうしても「つきっきりで手取り足取り」教える局面が避けられないと思う。加えて年齢が低いほど、手厚いサポート、見守り、ペースメーカー役が何らかのかたちで必要だ。オンライン環境を完璧に整備してもそれは授業ができるというだけで、学習の継続、予復習、反復練習、それをさせるための声がけ、叱咤というタスクが各家庭に任せられる。これまで学校に学習動機や託児機能を委ねてきた家庭では日々の労働と家事に加えて子どもの教育が凄い負担になっているはずだ。

 また外部化が少しずつ進んできた介護もデイサービスや介護事業所がストップすれば家庭に投げ返される可能性がある。在宅介護できるだけの設備と広さと人員と経済力ー、考えたら気が遠くなる。

 食料・生活必需品は宅配サービスで購入するほか、各国の物流や経済の停滞からの食料危機に備えて家庭菜園があれば安心だ。自家用食料を少しでも自分で栽培できたら市場価格・配送に一喜一憂しなくてすむ。

 
 …とここまで書いてみて思う。こんなこと全部できるのはよほど頭脳明晰で身体能力と経済力があり、肥沃な地方都市のやや郊外にマイホームとマイカーを所有している人でなければ無理だろう。上に列挙した条件を含めて浮かび上がるのは、ある程度の自己完結を前提とした生活様式だ。何でも自前で作り、まかない、対処できる人。そういう空間を持てる人。不完全さ、未熟さの開示を他者とつながる契機とするコミュニティ形成の道すじは選択肢から外れてしまう。

 他者とのつながり方は、SNSの普及でネットを介したつながりの方途がもうすでにあるのだけれど、まったく偶然の、新たな出会いはどうなるのだろう。

 これからは見知らぬ人とただ黙ってそばにいる、ということが簡単にできなくなる。

 ならば、今まで過剰につながりだの参加だのを規範としてきた人間関係を見直し、過剰消費にねざした経済活動から距離をおき、活動そのものをペースダウンして密度を下げるのが一つの活路かもしれない。集団と距離をおき、他者と距離を保ったうえであらためて見出す他者との接点は、かえって虚礼を廃して原点に還ったつき合い方を可能にするかもしれない。

 各人がつくりだす自己完結の館にどんな光が射すのか、これから進んでみなければわからない。


 

憩いの朝はいつか

 

 ダイニングの窓には隣家の若葉が揺れる。イタドリかな?と思ったがよく見ると丈の低いクルミの木にも似ており、よくわからない。休日の朝、晩春の緑を眺めながら朝食をとっていると、ふと昔よく行ったホテルバイキングの風景を思い出した。

 

 地元では23日から軽症コロナ患者の宿泊療養施設への移送が始まった。県内の感染症対応病床数はいま半数近く埋まり、呼吸器等の対応がきちんとできる病床はほぼ満床だという。今後も感染者が増え続けるとキャパの不足が懸念されるため、感染症指定病院の病床を重症者にあてるべく、医師が問題ないと判断した軽症感染者が順次、県が借り上げたリゾートホテルへ送られる。

 

 バイキングでおなじみだったホテルは、じつはそこである。ニュースで外観を見ると驚くほど古びてしまったが、周囲の面影はそのままだ。

 

 2000年代の前後、日曜朝によく家族で朝食だけ食べにそこへ行った。駐車場には初夏の渓谷の音が響き、蔦の緑も印象深かった。ほかに大浴場だけの利用も可能で、土曜の夕方などにやはり家族で行った。それが再開発で周辺地域に観光ホテルが競合し、貧困化の時代の波に洗われて地元住民は可処分所得の余裕を失い、私たち家族もそういう楽しみから遠ざかった。デフレで安いチェーンの飲食店やカフェが市内に普及し始めたのもその後である。

 

 今回のコロナ禍で真っ先に痛手を受けたのは観光業であり、次が飲食店だった。送別会のキャンセルが相次ぎ、宴会のご馳走用の食材は行き場を失うか値が暴落した。今はチェーンの飲食店もガラガラで、しかし休業補償がないため閉めるに閉められないのが現状だ。

 

 それで、業務形態を変更する店が増えている。学生向け食堂、カフェ、レストラン、居酒屋、もつ鍋屋までが続々とテイクアウトを開始した。じつに多彩で、どの店も必死なのだ。

 

 先日の誕生日に利用したディナーセットのテイクアウトを父は気に入って、8月の「お母さんの誕生日には別のメニューを頼んでみよう」などと言っている。私もぜひそうしたいが、それが実現するにはいくつもの条件がそろわなくてはならない。

 

 私たち家族が健康でいられていること。

 その店が夏までつぶれず存続していること。

 そしてテイクアウトで少し贅沢する金銭的余裕が、自分たちに残っていること。

 

 コロナ禍はウイルスの型の変種や第二波、第三波の到来であと2年は自粛が必要というのが専門家の見たてである。社会の常識やルールは変わらなければ生存を維持できない。もちろん働き方も変わるだろう。

 

 けれど、飲食店の形態がどう変わろうと、人間には憩いのひとときが必要で、またあの清澄な朝の食卓を迎える時が来ると信じたい。そしてできればあのホテルがその日まで残っていて、地元の人々を楽しませてくれることを、朝に若葉を見るたびに強く思うばかりだ。

 

 

それぞれの仕事状況

 もらった誕生カードを机に並べて返信の言葉を探す。誕生日ということで家族が用意してくれた特別ディナーの後に自室へ引き揚げた木曜夜のことだ。

 

 思いがけずありつけた夕食は、街中のカフェレストランが始めたテイクアウトのセットで、ふだんはフレンチ総菜を中心にスイーツやコースメニューを提供する店である。今回のセットがいくらしたのか家族に聞いても答えてくれない。が、店内営業を取りやめテイクアウトのみに切り替え、予約客のために19時まで開店するという苦肉の策でお店は何とか回っているもようだ。採算は取れているのだろうか。もともとテイクアウトをしていなかった飲食店では平常時の数割しか取り返せないのが実情だろう。

 

 緊急事態宣言が出るずっと前から、飲食店は軒並み苦しい経営を強いられていた。3月からとにかく人が集まる行為はダメ、でも休業補償はしない、自粛要請という呼びかけだけするからあとは自己責任でやってねという国からの無責任な姿勢で今日にいたる。

 

 わが家では母の勤務先飲食店が全店舗GW明けまで休業となった。昨年まで祖父の介護と並走して2店舗の食材発注・メニュー選定・店舗での配食を切り回してきた母は、いきなり与えられたこの静かな時間に、不用品の断捨離に勤しんでいる。

 こういう時間の使い方は本当にごく限られた人だけに可能な「贅沢」だ。ローンの終わった持ち家に、健康な夫と非正規でもどうにか勤務先がある娘と住み、パート収入が唯一の生計でないからひと月位なら暮らせるだけだ。飲食店勤務だけで生計を立てていた人は今、家賃ほか月々の支払ができるかどうかの苦境にいる。

 

 東京住みの友人から届いたカードには、2月より在宅ワークに移行した、通勤がなくなった分とても快適と書いてある。地元市内の、わが家から遠い郊外に住む親友は「何がテレワークだ、この地区は大手工場の下請け孫請け勤務のベッドタウンだ」と書いている。私と同様あてにしていた仕事や就職説明会が流れた、ともある。

 

 コロナは現代社会のルールを一気に覆しつつある。

 3か月前まで「ふつう」だったことが、コロナ禍以後の世界ではできなくなる。

 国外はもちろん、国内、県内でさえ人の移動はしてはいけない。

 

 こうなると今は住んでる自治体でベストを尽くすしかない。

 が、わが県知事は休業要請を出さない方針でいる。「緊急事態宣言回避のため」に外出自粛要請してきたが、4/16夕刻にそれは全国に拡大された。国が「やっている感」しかないのは事実だけど、ここまできたら「業種の線引きが難しい」など言わず休業要請を出せと思う。もちろんこれは外出禁止と補償をセットでやらない国が悪い。

 

 私はまだ自転車で通勤している。マスクとフード付き上着、消毒で防護しつつ。職場では部屋のドアと窓を終日開放しての換気で冷え、備え付けのハンドソープで手荒れし、その雇用がどのみち今年度末で終了なのでやっぱりやる気が消えかかる。

 

 この先どうやって生計を立てる?所持品はパソコン必須として、在宅でできる仕事にありつけるのか?でもそれだけで世界が回るわけはない。在宅勤務なんてできるのはたまたまそういう職種でその条件が整った人だけだから。食料や物資を調達できるのは、それらを作ったり売ったりする人々がいてくれるから。

 

 もし本当の破局がきても、ものを作ったり動かしたりする基本のしくみを知っていれば再建の方途も見つけやすいだろうと思って読んでいるのがこちら。 

 

 

 どうか今困っている人たちが、人間らしく尊厳をもって新たな世界で暮らしを立て直せるように。 

 

渦中で創り出すもの

 SNSには連日怖い(が、その通りだと認めざるを得ない)指摘が飛び交っている。ネガティブな感情に呑まれるのを防ぐため、ログインはせずに、こういう時まともな呟きを出していそうなアカウントをいくつか検索してTLから情報を追う。

 

 コロナ危機においても「御用」という立場の人はやっぱり居て、「賢いふりをしたい人」や他人から「賢いと思われたい人」にとってはうってつけの言説を垂れ流しそれなりにバズっている。残念なのはかつて親しんだ人がそういう投稿を懸命に拡散していることだ。ソーシャルメディアはトピックによってはテレビなどのマスメディアよりもよっぽど情に訴え、同じ立場や主張をもつ人々の間に共感の波を起こし、ネット内である種の世論を作り出す。それはこの国において政権を揺さぶることはできなくても、共感する人々の行動を確実に変え得る。そうして社会の中に別の層が加わるのだろう。

 

 コロナ対応をめぐって国内政府の方針は愚かである。

 検査をしぶって無症状感染者を増やし、モグラ叩きの様相しかないクラスター対策にこだわり、感染者確認から2ヶ月以上経って病床が足りないという。外出自粛を要請しながら一律の休業補償をしない。各世帯マスク2枚、それで国民の不安が消えるそうだ。

 

 

 私たちはー日本国ではー、いまや味の良い家畜としてさえ期待されていない。近代国家が富国強兵を掲げて総力戦体制のもと、国家にとって使える・役立つ人材をつくろうと社会統合の手段をほどこしたのに対して、いまや国民はコストとしか思われていない。

 各々、心身の成長も回復もそのための資源も環境も自前で整えよというのだ。死んだら損失にカウントされる家畜の方がまだ注意深くケアされている。

 

 この国の人材や社会インフラを棄てにかかる発想を、私は3.11よりも強く感じる。

 

 あの時の私は、いくら厳しくても被災者として受難の前線にあるという実感が持てたし、それが自分を鼓舞していた。現在もパンデミックの当事者ではあるけど、今回は圧倒的に切り捨てられる側にいることを痛感する。公文書も統計も改ざんする国である。感染者・死亡者として数のうちにカウントされるかどうかも怪しい。

 

 職場では年度開始のトップからの挨拶で、ペストやスペイン風邪を引き合いに「それでも人類は続いてきた」、だから挫けずに云々という話があった。いったいそれがどういう励みになるんだろう。何億、何千万という犠牲者のなかに自分が入ることはやっぱり避けたい。

 

 一方、SNSには在宅勤務や家庭菜園の創造的な日々もアップされている。音楽や動画のストリーミングもある。それがまた自分にとっては打ちひしがれる。底をつきそうなマスクをつけて自転車通勤している自分が情けないからだ。

 

 感染拡大の次に来たる食糧危機、一変するだろう物流と働き方に備えて、みんな今いる場所で何かを創り出そうとしている。

 

 しかし何より、(可能な人は)部屋にこもって息を潜めてその心身を存続させることが、まずは今できる創造だと開き直ってしまいたい。

 

 

 

 

やる気のともし火

 新年度が始まった。あいにく朝から酷い雨で、時間ギリギリで乗れた路面電車の中からマスクで表情が隠れるのを良いことに胸中で悪態をつく。

 

 勤務はあと1年ある。契約期間は半年ごとに更新する。とはいえコロナ感染状況いかんではいまやどの職種業種も雇用不安と無関係ではない。そこは覚悟している。今日は新規採用者を迎えて辞令交付式と事業説明があり、明日から業務ごとに研修がある。

 

 コロナ危機で仕事を失わないだけ有り難く思わねばと頭では考えつくのだが、年末面談で雇用期間を告げられた日から自分の中でやる気は砕け散っていて、出勤して息して手を動かせていることをむしろ不思議に感じてしまう。チームワーク、手や身体を使う作業、と何一つ自分に向いてる要素がないこの専攻外かつ異業職種で入職してもうすぐ3年近く経つ。

 

 部屋には新しい上司が来た。長く県外で同業種を務めたヴェテランで、今回の着任で出身地である地元へ帰郷したかたちになるそうだ。現職場の雰囲気からして今まで居なかったタイプの物腰で、何でも具体的に細かく詰めそうなのでうまくやっていけるかしらと不安も感じる一方、仕事が回れば何でもよいとも思う。

 

 この人のやや突き放したように聞こえるもの言いのせいか、雑談の一つとして交わされた

「(コロナは)もうみんなかかるでしょう、時間の問題です」

という発言は心底恐ろしかった。

 

 ヨーロッパとアメリカで感染拡大してから、このウイルスがかなりの致死率を備えていることが明らかになっている。

 自分が感染すること、自分の身近なまたは大事な人が感染して不可逆の苦痛に留め置かれること、そして死ぬ可能性はかなり高い。そうやって引き起こされた事態は心身にどれだけの痛手をもたらすだろう。

 

 新型コロナウイルスの感染拡大は凄まじい。今worldometerを見ると世界全体の感染者数は87万人を超えた。

https://www.worldometers.info/coronavirus/

 

 「クラスター対策」なるものが功を奏したかと言われた先週末から一変、国内では一気に感染が増え若い人も0歳児も感染した。特措法を一気に改正したのに緊急事態宣言は出さず、出てきたのは1住所に布マスク2枚配布という、いっそ国が買い上げて配給の方がまだマシではという取り組みだ。

 

 じつは、今月県外で私が受ける予定だった採用試験が延期になった。7月を目処に実施調整とのことだが、その時期に情勢がどうなっているかわからない。

 

 コロナは有名無名にかかわらず感染する時はするのだ。王室の人も政治家も芸能人もかかる。富裕層は自衛手段の選択肢を貧しい人よりたしかに多く持つが、かかる時はかかる、という現実が各国で示されている。そして致死率はイタリアで10%を超えている。

 

 

 思い出すのは3.11東日本大震災の被災時である。あれを思い返すと仕事や体裁はともかく生きたい、自分よりもはるかに有能で必要とされる人材こそが生き残るべきだと言われたとしても、私は生きたいという気持ちがはっきり湧いてくる。

 むろん、非常事態に奮い立つ覚醒や災害ハネムーン期はいつまでも続かない。いつかコロナが本当に終息し、自分がまだ生きていて、しかし何の適応力もスキルもなく生存を脅かされる可能性もある。

 

 雇用もやる気も生産性も風前の灯火ではあるけれど、この意外な危機が震災の記憶をもって生きる方向へ意欲を導いてくれることを実感する数日である。

 

 

マイナスをゼロにする

 外出自粛や在宅勤務、または自宅待機で家にいる時間が増えた人も多いだろう。そんな中、家事の何が辛く、煩わしいのかに気づいた人もいるはずだ。

 

 「籠城生活も楽しい」と言える人はたいてい自分の時間が増えたか、自分の裁量で時間の使い方を決められる人だと思う。ふだん読めない本がゆっくり読める、漫画の一気読みや映画見放題ができる、もともと料理好き、通勤時間がなくなった分他のことに時間が使えるという人たち。

 

 一方、家で家族の世話をしなければならない人、それもふだんは職場か学校に行っている者たちが家にいるせいでお世話の手間が倍加する人たちにとって、家にこもることは負担と犠牲の増加を意味している。

 あるいは同居が不適切な相手(たとえば虐待やDVの加害者)と一緒に居なければならなくなった人たちにとって家は安らげる場ではない。自分の時間どころか自分の身の安全を守るために全ての時間が不安と緊張に満ちているだろう。

 

 自分にとって安心安全な居場所があること、時間の使い方や行動の段取りがある程度自分で決められること。避難所で過ごした経験を振り返っても、快適な屋内生活を送るうえでこの2つは不可欠な条件だ。

 

 その上で、家事の煩わしさが何で構成されているかというと、その大半が「マイナスをゼロに戻す作業」とでも言うべき修復や「後片づけ」、補充、リセット、リカバリーで埋め尽くされているゆえんではないかと思う。

 

 たとえば料理が得意でも流しや台所をそれができる状態までセッティングしなければならない。流しやガス台に前回の食事で使った食器や調理具が汚れたまま放置してあってはいけない。流しのゴミ袋が一杯なら口を結んで別のゴミタンクに移し、新たな袋をセットする。その袋だの洗剤だのが切れてたら、買い置き分を開けて補充する。台所仕事は名前の無い家事でいっぱいだ。

 

 家事は、積んでは崩す、賽の河原の石積みのようだ。

 

 家事は何かを新しく生み出すいうよりは、何かをただ一定水準の状態に維持するためにひたすら手と身体と神経を集中させる行為と捉えられている。そのせいか、きちんと出来ていれば誰も何も言わず気づかずだが、出来ていなければたちまち目につきQOLを左右する。

 

 何かを維持することの労力と大変さに、「生産性」ばかりまくし立てる人間はどれだけ気づいているだろう。資本主義経済が地金を剥き出しにすればするほど、労働者個々人や原料となる自然およびそれを加工する人たちへの「お世話」(乱獲や乱開発、搾取の見直しを含めた維持管理)は誰が担うのかを問わずにはいられない。

 

 家庭は凄く煩わしい一面を持つが、家庭以外に家事やケア役割を外部化・共同化していくならば、生活や事業においてメンテナンスがどういう性質の行為なのかを細部まで吟味し意識化する必要があるだろう。