いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

新型コロナウイルスの解説動画

 covid-19とはどんなウイルスか、どのように感染するのか、発症のしくみ、急速なパンデミックが医療にもたらすダメージ、パンデミックを緩やかにするためにすべきこと、が丁寧に示されています。

コロナウイルスとは何か&あなたは何をすべきか」

https://m.youtube.com/watch?v=BtN-goy9VOY

 

 現段階で基本をおさえるにはまずこれが良いでしょう。

 

 あとはworldometerというサイトで世界中の感染者数、死亡者数の最新情報をチェックしましょう。

https://www.worldometers.info/coronavirus/

 

 数時間ごとに上がる感染例数を見ていると、侮りは厳禁だとわかり、怖いのですが。

 

 

コロナ近況

 一昨日からようやく、ドラッグストアに並ぶ長蛇の列を見かけなくなった。通勤路の途中にある大規模ドラッグストアの入り口には「本日3/12(木)はマスクの入荷はありません」と書かれた看板が立っている。あれほど大騒ぎしたトイレ紙やティッシュは徐々に棚に並び始めた。それでだろう。

 3日前まではなかなか凄かったのだ。毎朝通勤途中に寄るコンビニの隣にあるこのドラッグストアの前に、朝8時前から行列である。広い駐車場には車が数台しかないからたぶん集まっているのは近隣住民と思われる。年齢も性別も偏りがない。中には長時間待機用にキャンプや釣りで使う折りたたみ椅子を持参して座り込む人もいる。

 それにしても、いったいどういう目的でこの人たちは並んでいたのだろう。皆マスクを着用している。マスクの手持ち在庫はあるみたいだ。そもそもマスクは今どこの店舗にもない。生産工場は増産をかけてフル稼働らしいが、流通・小売りが追いつかないのか。ではトイレ紙やティッシュを買うためか?これらは生産・流通・販売に何ら欠損がなく在庫も十分あるのに、大量に買い占める人のせいで売り出すやいなや一瞬で売り切れ、ふつうに使って在庫が切れた人たちがしかたなく並んでいたのだろうか。

 とはいえその付近は決して辺鄙な場所ではなく、隣に大きなコンビニ、東へ進めばスーパーもある。そこから1Km前後の私の居住区では小さなスーパーの棚にトイレ紙が余っている。聞く話では車で出入りできる大型ドラッグストアは品薄で、ふだんあまり人が行かない小規模スーパーには物資があるらしい。不安に駆られて人が大挙する場所よりも、手近な小さな場に目を向けたほうがいいようだ。

 

 仕事・経済面にも新型コロナウイルスの影響は甚大だ。接客でも販売でも製造でもない自分の職場にもその影響は出ている。とは言えその影響の中身は一斉休校の余波であり、取引先事業所でお子さんの面倒を見るためにフル出勤できない勤務者が多数いるため作業や納品が遅れる、という話だった。むしろ深刻なのはリーマンショック以上の経済危機となった今回、巷で4月1日採用の内定取消や派遣・契約切りが頻発し始めていることだ。結局あと1年は地元で現職続行となった自分の転職活動はどう難航するのか。

 

 日本のコロナ対策に誰もが感じている欠点は、圧倒的な検査数の少なさである。PCR法は時間がかかる・精度が曖昧・検査機器が足りないうえに、保険適用がなされるまでは保健所を通さないと検査にたどりつけなかった。にもかかわらず、保健所が検査を拒むケースが多々あり、肺炎とおぼしき症状があるのに医療機関をたらい回しにされるなど時間のロスが生じた。結果、その間に別の人がーそれも医療従事者が感染するという信じられないループも起きている。感染症対策として、軽症者の自宅待機は正しいが、軽症か重症か、そもそも感染したかどうか素人にはわからないわけで、やはり検査体制の拡充が求められる。隔離が必要なら軽症者を入院させる管理施設を決めるべきだ。病院も、一般診療とコロナ治療をきちんと分ければよい。分けず、また検査もろくにできないがために、院内・医療従事者への感染が広まっている。

 

 検査を徹底すれば医療崩壊が起きる、という主張もネットではなされるが、日本の医療インフラはそんなに脆弱なものなのか?民間の医療保険しかないアメリカとも、医療スタッフ不足のイタリアともちがって、曲がりなりにも国民皆保険が前提で街中の病院ですぐに診てもらえる日本の医療体制が、コロナに対して無力だろうか。

 こうした日本の対策を、世界水準比較や海外の実践事例を引き合いに批判する声がSNSには溢れている。たとえばWHOの声明を参照するなど。

 

https://www.who.int/dg/speeches/detail/who-director-general-s-opening-remarks-at-the-media-briefing-on-covid-19---9-march-2020

 

 しかしWHOが今回何か有益なことをしただろうか。パンデミック宣言を出したのは遅く、深刻な危機にあるのは皆とっくにわかっているのに煮え切らない発表ばかりで今にいたる。韓国の取り組みを高く評価できるのは同意だが、民間の医療ベンチャーの発展・普及によりそこへ検査を回せたこと、ドライブスルー検査など迅速な検査体制が作れたこと、IT化の利点を生かしシステマティックな医療体制が築けたこと、MERSの反省をふまえて実現した取り組みもあることがポイントであり、医療土壌の異なる国ですべてを真似ることは難しい。

 

 このコロナ騒動はいつ終息するのだろう。終息するのか、何をもってどんな形で終息とみなすのか、それも今はわからない。インフルのように季節性の流行ウイルスになるのか、それとも不可解な症状で高い致死率を現わし始めるのか。

 発生源だった中国では昨日、初めて新規感染者が1ケタになった。ピークは過ぎたというのが大半の見方だ。今ではイタリアへの医療支援にも乗り出していて、国際社会での信用に大きく貢献するだろうとは思う。でも経済面では、これまでのように中国に生産拠点や支社を置くことはためらいが生じるのではないか。そうすると国際経済の流れは大きく変わるだろう。

 経済面では厳しい局面となると思う。だが市場は市場として数多あるセクターの一つなのだから、それ以外の国家や私的領域、その中間団体には別の動きができるはずだ。情勢をわき目に自分はどう動くか、を注意深く考えていこう。 

  

 

そこに人が集うなら

 母方の祖母が他界して2年半が経つ。

  祖母が住んでいた家は今空き家だが、近くに住む叔母が庭や部屋の掃除を頻繁にしている。生前のこまめな手入れのせいか古いわりに内装はきれいで、法事をそこで行うこともあって電気・ガス・水道も通してある。ただ、経費はとてもかかる。

 

 そんな折、叔母の知人が週イチでこの家の一部を借りることになった。山奥の少し辺鄙な場所で雑貨屋を営んでいたこの方は、もっと交通が便利で客の出入りがしやすい立地の店舗を探していたのだという。そこへ、大きな道路沿いにあり周辺に家も店もたくさんあるこの祖母宅が空き家であることを知った。叔母と相談して客間にしていた和室2部屋を日曜日だけ雑貨屋として開放し、部屋や廊下の掃除をするなどの取り決めでなんと月5千円の賃料で借りることになった。そうして1月から雑貨屋はスタートした。

  写真は年末に撮ったその一部。 

 

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 同じ頃、母の友人の友人が、亡くなったご両親が住んでいた古民家を人の集まる場所として開放するようになった。元は学校教員を務めていたというこの方のネットワークで楽器の演奏、趣味で制作した絵画や小物の展示、合唱やヨガ教室の開催を単発で行っているという。母もこの友人のお誘いで小さな文化祭に参加してきた。以外にも3、40代の方が多く集まり、活況を呈したそうだ。賃料はやはり度外視しているそう。儲けることが目的ではなく、商売で貸すとなれば採算をとるために色々人間関係に制約がかかるからだという。

 

 空き家問題は今後ますます身近になるだろう。高齢の親が不用品を溜めに溜めたゴミ屋敷同然の家屋ばかりではない。愛着はある、手入れも行き届いている、でも現役世代が子連れで住むには手狭だったり不適切だったり、子世代には別の住環境と生活があってその家には住めないー。こんな空き家もあるはずだ。更地にすれば税金がハネ上がる、解体費用ももったいない、住めない・売れない・貸せない空き家たち。

 そんな中、どうにか活用のヒントとなるのは家を「人のつながりの中に置く」ことだろうと考える。

 

 「ポツンと一軒家」という人気番組を思い出す。この番組がなぜ人気なのか、すでに考察が多々あるけれど

「ポツンと一軒家」が視聴者を釘付けにし続ける理由(高堀 冬彦) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)

 

『ポツンと一軒家』、視聴率20%超え!“圧倒的” な支持を集める理由 | 週刊女性PRIME

 

やはりそこに「人間の物語」があるからだろう。

(ちなみにテレビをお持ちでない方も、アマゾンプライムでこの番組を視聴できる)

https://www.amazon.co.jp/dp/B07MY3TM89

 

 一軒家に住まう・関わる人の事情も、田舎暮らしを望んで自らやって来た人もいれば、お堂や寺社仏閣を守るため、お墓があるから、亡くなった家の主にとても良くしてもらったからなど多彩である。

 そこに共通するのは、彼/彼女らはどんなに辺鄙で物理的に隔絶されたように見える場所に住んでいても、必ずしも社会的に孤立しているとは言えないことだ。

 

 

 皆、各々の社会的・個人的ネットワークの中で生きている。

 お墓やお堂を大切に思い守ることは、特定の社会的文化的文脈における意味・価値の現れである。

  関わった人との遺志を継ぐためや、その人の思い出ゆえに生きることも個人的つながりの中でこそ意味をもつことだ。

 

 そこに人が集うなら、家は人間の営為や物語の中に置かれ、命を吹き返すのだ。

 

わが手に、わが台所に

  足のケガで旅行に行けなかった昨年の夏、頻繁にアクセスしたのが日本から海外へ移住した方々のSNSだった。わけても印象的だったのは、7年前にご夫婦でタイ・バンコクへ移住した方のブログサイトで、街の様子や生活様式のちがい、夫婦のやりとりなどが漫画とエッセイで綴られている。とりわけ興味深いのは食生活のことで、町の屋台や食堂で何でも食べられて、ご自宅で自炊することはほとんどない、という件だった。

 

 まず外には屋台、出来合いのおかずを売る店がたくさんあって、それも1回分から買える。メニューには辛味・酸味で味付けした火を通した野菜のおかず、切った果物が豊富で、選び方に気を付ければ栄養が偏ることもな無さそうだ。ご飯のおかずになる献立もある。食堂やフードコートも充実しており、外で食べることも多いという。

 またご自宅のキッチン設備もあまりに簡素で、そもそも自炊を想定していないともいえる造りで、調理用具も揃えていない。それでも周囲の飲食環境が上述のため不便は感じず、お子さんなしのご夫婦二人きりの生活には十分足りているという。

 

 もちろんタイの人たちが全く自炊しないわけではないだろう。とはいえ子連れで同じくタイへ移住した方のサイトを見ると、お手伝いさんを雇って働く間家事をお任せするほか、外食も頻繁になさり、しかもとても安い。

 

 都市では条件が整えばこんなこともできるのだなあと感心した。

 

 おそらく、明らかに衛生上の理由もあると思う。蒸し暑い土地では持ち帰りの道中が遠いと中食が傷むかもしれない。何でもかんでも自宅に持ち帰って置いておくのは決して合理的ではない。入手した食材を保存しておくには存外コストがかかるものだ。スペースの確保、温度湿度の管理、賞味・消費期限を覚えて気にしながらアシの速いものから料理して片付けるー。

 

 それだけでも大変で、かなりの頭脳と神経を使うのに、食材によってはそれ一品ではおかずにならないものもある。それを食べるために他の食材を買い足して日々献立を繰り回す。平昼9時5時の労働者ならまだしも、不規則勤務や夜勤のある仕事の人にそういうことがどれだけ過酷で労力を奪うことか、考えずにはいられない。

 

 日本の夏はこの二十年間で過去とは比較にならない酷暑となった。もともとの高温多湿に加えて、気温はありえないくらい上がったのだ。それなのに家庭での食や調理のスタイル、とくに弁当の慣習は古いままである。この2年間で公立学校の冷房設備はだいぶ整ったみたいだが、それより前は冷房もない教室に炊いた米の弁当を持って人の密集した閉鎖空間で過ごすなど、考えると恐ろしい。

 

 加えて日本には何でも家庭で囲い込むのが愛情だという思い込みと規範があるようだ。とくに食事はわが家に!わが手で!意地でもいちど自宅に持ち込んで、母・妻の手から食べたい・食べさせたいー。そんなこだわりとそうさせる圧力が日本社会にはある。これもまた私的領域への囲い込みといえるかもしれない。

 

 適正な市場化と共同化が進めば、どちらも家事を家庭内での抱え込みから解放できるのになあ、と考えさせられるサイトだった。

 

DIYの起点

 前に書いた、新しく農業を始める方が近況を話してくれる。

 最近進めているのは家のリフォームだそう。これから住むのは数年間空き家として放置されていた物件で傷みも激しく、あちこち修理しないと使えない。ホームセンターで道具を買ってきて、床板の張り替え、玄関の鍵穴やトイレの金具、触ると崩れる屋根のへりなどを一生懸命直しているという。

 

 そんな中、興味深かったのは壁の塗り直しだ。新居は壁の一部も傷んで漆喰が剥がれていたので、ご自身で塗り直したそうだ。初めての経験だったが思いの外簡単にできたと言う。何でもネットで検索して缶入りの漆喰を入手したところ、容器を開けたらすでにペースト状の塗料が入っていてあとは塗るだけの状態だった。むろんプロの職人の技とは雲泥の差だろうが、素人が特にこだわりをもたず家を修理をするには十分だったとか。時間が経つにつれ変化する壁の色味を写真で見せてもらいながら、今はその気になればDIYの条件はけっこう整うものだなあと感心した。

 

 自分の手で生活を作ること。最初は失敗しても、自ら選び決めて自分の手でモノや道具、住まいをより良く作り変え、完成させていくこと。DIYの醍醐味はそこにある。

 

 でも、いったいどこからを「自分で」と言い得るんだろうか。今回その方が住まいを自分で修理できたのは、ホームセンターに道具があって、ネット販売であらかた合成された「出来合いの」商品が売られていたからでもある。もちろん本人も技術を身につける必要はあるが、それはふだんの家事でも同じことではないのか。

 

 たとえば炊事の場合、どこからを「おうちで」「自分で」と言うのだろう。

 食材を切るところから?手に入れるところから?火を通すところから?

 ミールキットは自炊に入らないのか?

 材料の一部に冷凍食品を解凍して取り入れることは?

 家族ではない、家政婦や家事代行者、やヘルパーさんの作った食事なら?

 

 おそらく食材の入手から調理、食卓に乗せるまでを全て自前でやれる人なんて、都市生活ではかなり限られる。

 

 しかし、自分や家族の食や暮らしに責任ある態度はとれるだろう。信頼できる店や会社や家事労働者を調べ、適正な料金を払って活用する。食の安全を本当に賢い消費者がその流れを作っていくこともできたはずだ。

 

 何もかも自宅に抱え込むこと。自力へのこだわり。それらの歪さと同時に、それらを成り立たせていることに、案外DIYは気づかせてくれるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

非正規雇用は潜在的失業者である

 今月に入ってから何度かハローワークを訪れている。求人応募先への紹介状を出してもらうためだ。応募したい事業所の求人にいくつかあった不明点をハローワークを通して確認してもらい、応募してよいか事業所から許可をもらわないと紹介状を発行できないという。

 

 煩雑だな、とは思ったがそういうルールなら仕方ない。これも応募したい求人がたまたまハローワークの紹介状を必要とするものだったからで、職安経由の求人とはそういうものと割り切っている。

 

 だが、やっぱり色々と思うことはある。

 

 一つに、県外への応募に対して窓口担当職員があまり良い反応をしないこと。

 まあこれはリスクを伴うことではあるし、現実的でないのも理解しているけれども、自分が納得して前へ進むために必要なことなのだ。来年度の今頃オロオロ動き回っても今より勝率が高いとは思えない。年齢のこともある。オリンピックの後景気が一気に傾く可能性もある。今のうちに動いて応募先の反応を確かめ、ダメなら方向転換するためのプロセスだ。

 

 いま一つに、在職中に使えるサービスが殆どないこと。

 職業訓練は基本、雇用保険受給者が対象(求職者支援訓練はそうでなくても対象となる)。だから先月は施設・コース見学だけ行ってきた。

 わかものハローワークでの個別相談も基本的に雇用保険受給者(つまり現在失業中の人)が優先だそう。

 

 もちろん、在職中から就活するなら転職サイトで求人を見てエージェントと相談するのが最適だろう。スキルを習得したければ民間のスクールや通信講座ほか選択肢はある。ハローワーク公共職業安定所として限られたサービスを提供するだけだ。そうわきまえてはいるけれど、そこにはやはり制度的・慣習的に根深く張りついた前提がある。

 

 それは、「一つの就業先だけに所属し、そこだけに帰属意識とロイヤリティを持ち、全生活局面においてそこで与えられる仕事だけを優先せよ」、

あるいは「すでに一つの所属先で働いているのに他へ目を向けるという二股はケシカラン、今いる会社で与えられた仕事「だけ」に尽力し、そこと縁が切れてから他を当たれ」とでも言う考えだ。

 

 職員の反応に時おり薄々感じるのは、「一つの働き口に、不満があろうがブラックだろうがとりあえずブッ込んでおけばいちおう就労者とみなせるんだから」という態度だ。ダブルワークや副業を許さない会社の本懐もこれだろうか。

 

 たしかにそうやって日本型経営は繁栄をきわめた。だがそれは過去の話だ。新自由主義改革の趨勢で国内労働者の4割を占める非正規雇用者はそんなこと考えていられない。

 

 賃金が低いから一つの仕事だけで食べていけることが当たり前ではない。

 非正規雇用はつねに契約更新の懸念を抱えて働いている。一年ごとの契約なら翌年クビを切られる可能性もある。契約更新の回数が決まっている場合、何もしなければ契約終了後は失業者となる。

 私を含めた彼/彼女らにとって、就業と失業の境界も不明瞭だ。非正規雇用潜在的失業者なのだ。

 

 いまや、労働と非労働の線引きも難しい。労働の対価として賃金が得られるはずの仕事を家庭内外でタダ同然に低く見積もったり、逆にこれまで私的領域において無償で担われてきた家事労働やケアを破格の低賃金ながら市場化する動きもある。

 

 雇用や労働に対する前提を意識して見直さなければなあ、というのがこの数ヶ月の率直な所感である。

 

 

それぞれのセカンドキャリア

 年度末につき、周囲では人員の出入りが知らされ始めた。現職でも家族の職場でもとりわけ印象深いのは、定年退職の手前で早期退職し、かねてから暖めてきた第二のステージを歩みだす人たちだ。

 

 一人は、若い頃からの夢だった農業を山間部の一軒家で始めるそうだ。この20年ほどもてはやされた新規就農や移住支援をうたう支援策も横目に見ながら、月イチ〜週末に現地へ通い、地域でつながりを作り、農地を借り、販路の見通しもつけたという。

 

 いま一人は、ひとり親として頑張ってきたが子どもが独立し自分の未来を考えたとき大好きな料理の技術を生かしてお店を開く、という選択をした方である。長年飲食店のパートで働いてきたが、60歳を過ぎると賃金ガタ落ち・それも65歳で終わりという展望のない働き方ではなく、体力の続く限り自分でお店をやりたいとのご判断から、自宅を改装し店舗調理場として小さなお弁当&お惣菜屋さんを始めた。

 

 

 いずれも、けっこうな準備期間があった。お弁当屋さんの方は、一年半ほど前からたしか週末だけ開けて、お客さんの入りやメニューの反応を見つつ、平日はパートを続けていた。農業をやる方も、長年家庭菜園で試行錯誤し、実際に実現に向けて動き出したのはこの三年ほどだという。

 

 資金繰りや採算合わせ、先の見通し、不安定な経済、自分の体力、家族や周囲との折り合い、ダメだった場合どうするかー。懸念は尽きないだろうし、リスクは次々と湧いてくる。それでもご本人たちは踏み切ったのだけれど、残念ながらそれを良く思わない人も周囲にはいる。

 

 妬みもあるんやろうなあ、と農業の人は言う。ご自身の選択を周囲に告げたとき、褒めるせよ貶すにせよ何らかの嫉妬心が多くの中年男性にはあるとその人は感じたらしい。

 

 自分もやりたいことがあった、だが家族と生活のために下げなくてもいい頭を下げて、組織に従って勤めを続けながら今に至る、それなのにアイツは好き勝手をしているー。

 

 こういう感情は歳をとっても尾を引くらしい。そして何かの折に胸中にしまっておいた忸怩たる思いは頭をもたげ、酒の席などで時として意外な発言として口にのぼる。

 

 無責任、という言葉を吐く人もいた。それは今勤めている組織に対してであるだろうが、しかしそう言う人が組織の未来を考えながら働いているとはあんまり思えないところが面白い。

 

 もちろん、リスクはある。

 FTAで日本の農業は壊滅的な痛手を受けるだろう。

 高齢女性が一人で飲食店を切り盛りするのは歳を経るにつれ厳しいだろう。

 経営する側の体力以上に、買い支える消費者の側が高齢化と貧困化でまともな食を口にするのが難しくなる時代である。

 

 でも、これだけは言える。

 

 どんなに資金や時間、体力が潤沢に与えられたとしても、人間は望まないことをわざわざ行動に移さない。逆にはたから見てどんなに危険に見えることでも、本人が望むならその人はそれを選ぶ。意志あるところに道はあり、とはこのことだなあとこの人たちを見ながら思う。

 

 ともあれ、年金制度の解体等々で定年退職という制度じたいがあんまり機能しなくなる労働環境が迫っている。内需は減る一方でガラパゴス化するこの列島で各々が問うべきことは、

どうすれば自分の納得いく生き方ができるか?である。年度の変わり目に新たなステージを歩む人たちに、心から声援を送りたい。