いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

囲い込みの果てに

 先週の日曜午後、一番近いコンビニで用事をすませたあと逆方向の坂道だがどうしても喫茶店へ行きたくて徒歩で向かった。自宅からたいした距離ではないが、最短距離につながる道路は山道を少し整地したていどの急勾配で、自動車が身体スレスレに通り過ぎていくような狭くて足場の悪い道なので、今の私には危なくて歩けない。よって遠回りして住宅街の裏にあたる小道を小川に沿って歩く。足指を骨折した右足は添え木を外せたもののまだ完治はしていないので、走ることも自転車に乗ることもできない。土日は入院中の祖父の介護のため両親もそれぞれの車で出払っている。行動範囲はおのずと縮減する。

 川沿いの畑では夏野菜がうっすら終盤を迎えている。しかしトマトもカボチャもよく繁り手入れが行き届いている。住宅の密集したこの辺りは家庭菜園と花壇や植え込みがそこかしこにある。目を惹かれるが、なにぶん炎天下を歩くのはきつく、近道をしたくなる。目的地のカフェはちょうど三差路の角にあり、どこかの路地を抜けたらたどりつけそうに見えたので、小川の橋を渡って建物の陰を歩く。

 が、抜け道だろうと思って入った小路は戸建ての敷地で行き止まりだった。そこには幼少~学齢期の子どもがいるだろうファミリー向けの大きな戸建て―たぶんマイホーム―が並び、各家に2台ほど車がきれいに車庫へ収まっている。各家の玄関先はきれいに掃かれ、ゴーヤやフウセンカズラのカーテンが美しい。小川から引いた用水路を挟んで敷地の向いは畑のサツマイモはそれだけで絵になる蔓と葉の形姿を呈し、大事に育てられたオクラの青い実が愛らしく、ジニアやヒマワリも鮮やかだ。この付近のお宅が借りている菜園なのだろう。

 結局行き止まりなので川沿いまで引き返す。日差しはじりじりと焼かれるようだ。足を引きずるようにしてカフェ駐車場に面したバイパス脇まで歩く。通りへ出てみてあらためて思う。ここはバイパスを使って車で来る場所なのだ。広い駐車場はそのためだ。都市中心や近隣住民のカフェというより、郊外型居住者向けの立地と造りの店なのだ。

 白壁に瓦屋根、日本庭園を擁し、紅い和傘をしつらえた入り口から店内に入ると、お盆休み最終日のせいか空いている。汗だくでレモンスカッシュを注文し、窓辺の日本庭園に目を移す。酷暑で青草の端が少し焼けているものの、園内の草木は青々としていてよく手入れされている。広い店内は木造で有線放送ではない音楽がかかり、手前も奥もテーブル席がいくつもある。

 田舎に住む人々がマイホームとマイカーを所有する理由がわかる。それらがないと快適さを身の回りに実現できないのだ。身近に徒歩圏内にリフレッシュできる場所が少なく、あっても行くまでの交通手段が確保できない。公共施設や文化施設が中心街から離れて分散しているわが街では動線もメチャクチャでわざわざ目的がないのに気晴らしに行くような所ではなくなっている。中心街へ行けば洒落たカフェも数多あるけれど、郊外に住む人たちは付近まで車で来ざるを得ない、なのに駐車場を探すのが面倒―。中心街の限られた場へ行くまでのコストが半端ないのだ。

 だから、快適なものは自分で買って手元に置きたい。花を、緑を、それを植える敷地を、家を、それらを自由に買いに行けるように車を買う。かくして善いもの、快適なものはほとんど個人所有で私的空間に囲われていく。個人の家や庭、畑が目を見張る精彩を放つのに対し公園や公共施設が貧弱で殺風景というのも地方ではよくあることだ。
90年代以降実施された一連の構造改革はつくづく地方都市に痛手を与えたと感じる。大店法で個人営業店を潰し、小選挙区制で地方の民意を反映できない仕組みを作り上げた。公共部門は非効率で無駄が多いからと公務員とその人件費を削り、事業の民営化を進めた。

 善いものの私的空間への囲い込み、「自己責任」と称した社会的な問題の私事化、公共セクターが担っていたサービスの市場へ民営化。これらはすべてprivatizationの一言で表せる潮流である。

 帰り道によく見ると宅地側からカフェへ連なる階段がある。だがそこは戸建ての隙間にある草の生えた溝地から延びた石段で、足場が悪く、足腰の不自由な人には危険だろう。これからもっと高齢者が増えるのに、運転免許返納が叫ばれているのに、それまで地方でふつうに暮らせていた人たちが年をとり、車を手放したらはたして尊厳ある暮らしができるのだろうか。地方で真に「健康で文化的な生活」ができている層なんて今何割いるのだろうか。足が治ったらどこへ行こう?そう考えるのは励みだし希望にもなるが、ちょっと足が不自由になっただけで移動が制限されるのはおかしくないか。

 すべてを囲い込み、私事化し、所有し、自助努力と私費でまかなうこと。この帰結が、高齢者だけでなく病気や障害をもつ人、妊婦や子どものいる人たちを生きやすくすることは決してない。誰のものでもない、皆に開かれた場と回路、すなわち公共の概念を今切実に求め実現していく必要がある。