いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

ペットが教えてくれること

 

 以前住んでいたアパートは、向かいがペットOKのマンションのようだった。朝、日課の体操をしていると柴犬を散歩させている女性が通りへ入ってきた。何となく視線を離さずにいると、向かいのマンションの玄関ホールに入っていき、何と犬も当たり前のようにぴったりくっついて自動ドアをくぐっていく。ここの住人が飼っている犬だったのだ。小さな巻尾を立てリズミカルに四肢を動かし白いお尻を振りながら建物に入っていく姿はいかにも自然で、本当にそこの住人の風格があった。

 

 帰宅した後、二人にはどんな時間が待っているのだろう。女性はまず家事をするのだろうか。夫や子どもなど他の同居者はいるのか。在宅で仕事をしているのかもしれない。あるいは病気で療養中かもしれない。犬はマンションの同じ一室で、共に一日を過ごす。ケージの中にいるのだろうか。部屋のソファや椅子、床の一部に定位置があるのだろうか。退屈しないようにテレビやラジオがかかっているかもしれない。だがそうした刺激があってもなくても、犬は犬の時間を生きているだろう。

 

 ペットというのは不思議な存在である。可愛がるために飼っているのだから飼い主による支配を受けている側面はどうしてもあるが、とはいえペットは飼い主と全く異なるペースで違う時間を生きてもいる。実家にもかつて犬がいた。可愛くて、顔を両手ではさんで「ずっとウチの犬でいなさい、どこへも行ったらいかん、こちらだけを見なさい」と頬ずりしながら胸中でよく言い聞かせた。しかし、ペットの可愛さは相手がやっぱり自分以外の、自分とは別の存在でいてくれることにもある。

 

 四六時中一緒に居ても、ペットはもしかしたら決して同じ方向を視ることはなく、あるいは自分のいない世界に浸っているかもしれない。それでもいい。同じ時間と空間を、あの温かいかたまりと過ごせることが至福なのだ。

 

 むしろペットが自分と違う方向や対象に注意や関心を向けている姿に救われることさえある。東日本大震災からひと月少し経ったある日、宅地から少し離れた緑地で子犬を散歩させている人がいた。飼い主の方はもう色々あって完全に疲れ切った面持ちで歩いているのだが、子犬は生え始めた芝生を、木の芽が萌え始めた枝が影さす地面を全身で喜びながら駆けている。あたかもこう言ってるかのようだった。

 

 ー僕ねえ、生きてるの!それがとっても嬉しい の!

 

  それは生き物が見せてくれる姿の中で最も感動的な姿勢である。自分をとりまく状況がどうあれ、ひたすら「生きる」方向へ全身を向けること。人間は言語で思考し、予測を立て、あれこれを意味づけ、人工物を使って生きるけれども、それはすべて「生」を善くするためだろう。これを忘れたくなくて、人は人以外の生き物に触れたがるのかもしれない。