いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

空き家問題が問いかけるもの

 
 自宅近所はけっこうな勢いで空き家が増えている。のみならず、最近は空き家を取り壊して更地にする作業が進んでいる。近所づきあいが希薄なせいか更地になってからはじめてそこが空き家だったことに気づくこともある。閑静な佇まい区画であることも手伝って、よほど荒れた家でない限り人が住んでいるのかいないのか外観だけではわからない。で、更地になってしまえば元はどんな家が建っていたのか思い出すことも難しい。

 こうやって人が住んでいた痕跡は消えてゆく。住んでいた人や所有者には様々な事情があり、建てた頃にはそこへ住む人間がどんな晩年を過ごすか想像もつかなかっただろう。空き家が増えていく理由は単に少子高齢化だけではない。大都市圏でなければ食べていける仕事に就けない、子どもの教育環境が整わないなどの地方格差、企業内福祉を前提として公営住宅拡充を怠り労働者を持ち家に駆り立てた日本の住宅政策の失敗もある。持ち家は買ったその日から資産価値が下がり続け、維持管理には莫大なコストがかかり、居住者・所有者が高齢化すればなおのことそれらを自前でまかなうのは難しくなる。かといって処分するには方々の了解を取り付け手続きをし、これまた人手とお金と時間がかかる。これらのリソースを割けないばあい、傷もうがどうしようが空き家は放置するしかない。かくして売れない・貸せない・住めない家屋が全国あちこちに林立するだろう。

 家の処分まで行き着いても今度は更地をどうするか。立地が整っていれば駐車場にするケースが多いようだ。が、それもクルマを出し入れできる最低限の条件が整っていればのお話で、立地によってはそれすら難しい場合もある。自宅の斜め向かい奥にはコンクリートで均した地面の隅に小さな物置が建っている。もともと自動車の入れない幅の小路に面していて、こうするしかなかったのだろう。空地の有効活用も簡単ではない。中心街のアーケード付き商業施設集中区域にあった空地は、2年前まではちょっとしたプレイグランドで子連れが小休止する場所だったのにいまやコンクリートの駐車場である。スペースがあっても人が憩うためにはインフラが必要で、それを整備し維持するコストが負担できなければやっぱりそこは確実に賃料をとれる仕組みに変えないと存続できなくなるのだろう。

 人がある場所に住まうことは、実に多様な機能と意味の集積である。豪雨など災害で辺鄙な土地が被災すると上がる「そんな所に住む方が悪い、なんで備えをしておかないのか、自己責任!」という声は、人間を箱庭の部品のようにしか見ていない。辺鄙な土地にインフラを通してライフラインを築き、議会を置き、学校を建て、自営でも出稼ぎでもなんとか働いている人々がいるー、それは文明の実現であり、社会システムの一機能と社会全体の底上げであり、地政学上いわば「国力」の証ともいえる。人が住むから野生動物の侵食を防げる。辺境をかすめとろうとする意図の妨げになる。治水(ダムの水位調整は難しいとはいえ)や消防、治安維持、学力の習得、産業と経済システム、その他人間が暮らすうえで必要なスキルと機構をそろえた「小さくても輝く自治体」が全国に生きていれば、空き家も介護も貧困もここまでの深刻化は食い止められたかもしれない。平成の大合併小選挙区制導入は、明らかに日本の地方を衰退させた。エリアが広域化したぶん行政が面倒をみなければならない人員や機構が増えた。住民は医療や福祉に遠方からのアクセスを余儀なくされ、身近な機構ですべてをまかなえないために結局経済力のある自治体や都市部に「依存」せざるをえない。変えたくても小選挙区制では民意反映の回路はない。地方で働きたくても大店法で地域の小売店は撤退し、経済のグローバル化を受けて製造業は海外へ移転した。ではグローバル化に対応できるだけの人材育成に力を入れたかというと、新自由主義政策と「選択と集中」、「できん者はできんままでけっこう」(三浦朱門)という意図の教育改革のもとに教育を切り捨てて教育投資もカットした。このサイクルが失われた三十年のすべてである。

 空き家が増え、人が住まない一角が増えるとは、社会の一部として機能しないエリアの増加を意味する。ライフラインもその一角を避け、どことも繋がらない一角は町の動線から外されていく。そんなエリアがあちこちに出現すれば、人の動きは停滞し、社会の動線じたい構成することができなくなる。これから空き家問題や住まいの貧困を考えるとき、人間の居住がもたらす政治的・経済的・社会的機能/意味を念頭に置かなければ人や空間の孤絶を招くばかりだろう。