いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

「空室あります」の向こうに


帰り道はなるべく、生垣や軒にみずみずしい植物の活況がみられる道を選んで通っている。工業団地の趣が強い通勤先エリアとは異なる佇まいをゆっくり味わいたいからだ。

地元を出たい、離れたいと思いながらも自宅周辺を含む、山辺へ連なる一帯を私は好きで、散歩は楽しい。

そう思えるまでには時間がかかった。正確に言えば、そういうエリアが好きな自分を受け入れるのに抵抗があった。

このブログの初期をみればわかるように、一時期は一人暮らしに凄まじい執着を抱いていた。転職して、奨学金返済もようやく終わりが見えてきた今、ではそれにこだわるかというと引越しは保留にしてある。先月末わかった貧血で、バタバタしたり重いモノを運んだりするのはちょっと控えたい。

何より返済終了の解放感よりもこれまで払った金額の重み、それ以上に過ぎた時間を想って喪失感と虚脱感のほうが驚くほど強い。ちょっと前までは自家用車を買わなければならない事態を懸念してずいぶん悩んだ。悩んでも収入額は決まっていて、かつ支出は最大でも手元にある残高からしか払えないのだから不毛といえばそうなのだが、車の件は心身をかなり疲弊させたと思う。とにかく二重ローンは避けたい一心は今も変わりなく、結果、旅費以外の大きな出費はなるべく避ける方針でいる。


それでも数ヶ月前には市内でアパートを借りることも考えていて、もういっそこの際「スープの冷めない距離」でも良いかな?とさえ思ったことがある。というのはこの文字通り作りたてのおかずを鍋ごと持って行けそうな近所のアパートに空室が目立つからである。

空き家、空き部屋は最近よく目につく。少し前の記事で書いたように隣家が数年前から空き家だし、その奥に並ぶ住宅のうち一つが昨年消えた。戸建て以外にわが家の周辺には学生向けアパートも多いのだが、そこも全てが満室ではない。周知のとおり世代ごとの人口構造を見れば、大学や専門学校への進学者の大半を占める18歳人口は年を経るごとにその絶対数が減る。人口比からいえば圧倒的に多い高齢者はしかし、その人生を終える人も毎年一定数いるのでその人たちが去ったあと誰も住まなければ(というか売ることも貸すことも住むこともできない物件が今後続出すると思う)そこは空き家となる。ハコモノとしての物件と、そこへ入るはずの人間の数がアンバランスになる事態はおそらく日本中で顕著になるだろう。

いまや、不動産は資産という時代ではない。家や土地は維持管理のコストを計算に入れておかないと、はじめに資産価値があったとしても所有しないほうがよい。人の住まない部屋がどんなに傷みやすいか。手入れの行き届かない畑、使い途のない土地がどれほど人手と手間とお金を食っていくか。タンス預金としてお金を引き出しに放り込んでおくのとはわけが違う。何もせず放置、では済まされない特色が不動産にはある。家土地は生き物を世話するのと同じに考えておくのが良い。

住まいは、そこに生活の循環がなければすぐ淀みと停滞が発生する。仕事や家庭の事情で家をよく空ける人や複数ヶ所に住まいをもつ人はお解りだろうが、長く空けておいた住まいというのは戻ったらまず掃除から始まる。窓を開け風を通し、決まった日に出せるかわからなくてもゴミはまとめておく。そしてそこが単なる物置きや倉庫でないからこそ、ライフラインが通っていれば光熱費水道代もとうぜんかかる。

そういう二重生活を、身内の介護でせざるを得ない人もいる。自身の生活を抱えながら、もはや満足に住まいのメンテナンスが出来なくなって施設やケア付き住宅へ入居した家主の代わりに庭木を切り草を刈り、畑を世話する。そして家の中の不用品を処分して怒った家主と衝突して…という例に介護の仕事をしている友人は接するという。

空室あり。その先には自らの生活を作り、その住まいをちゃんと暮らせる空間として維持し育てていくコストがある。その負担の担い方は、たぶん経済成長前提のライフコースや家族形態をきちんと相対化した先にこそ、見えてくるはずだと思う。