いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

アクセシビリティのさまざま


ある人が相対的に他の人より資源を多く所有していたとしても、それは必ずしも自由や力を有すること、豊かさ、社会的アドバンテージを意味しない。

所有する資源、財ーたとえば金銭、食料、土地、電子機器類などーを多く持っていても、その人が自分の意思で使うことができなければその人はディスエンパワーされている。その人の意思決定が通る環境か。女性はとくに夫や親の反対で進学や労働参入、スキルアップを阻まれることが多い。かつて女性の生き方として規範化されていた専業主婦という立場の葛藤を、想起してみるとよい。とりわけ地方在住の、非正規雇用で経済状態が不安定なため親元に居住する未婚女性には上記以外にも様々な制約が生じる。

食材がたくさんあっても貧困ゆえまともな調理設備のある部屋に住めない若い人は、健康的な食事をとることが難しい。また加齢による体力・筋力の衰えゆえに、かつてできていた炊事ができなくなった高齢者を想定してもよい。さらに病気や障害のために身の回りのことが自力でできない人たちも同様である。

金銭そのものを多く所有していても、「ふつうの生活」をするには異様に高いコストを支払わねばならない人たちがいる。交通アクセスが悪い、公共交通機関が未整備な土地だと自家用車が必須だが、クルマがその購入費のみならず維持費にかなりの金銭を要する乗り物であることは周知の通りである。で、クルマを買えない、運転できない人は「ふつうの生活」に必要な当たり前の移動に相当な不便を強いられる。

概ね地方在住者は、大都市圏に住む人々よりもアクセシビリティの面で不利である。とくに知的文化的情報面でそれは顕著になる。大都市圏居住者が気軽にアクセスできるイベントや集まりに、地方在住者はそのつど遠距離移動の予定を立てなければならない。交通手段の切符をおさえ、場合によっては宿を予約する。週末朝から移動となれば、その週は疲れを溜めないよう体調をセーブしなければならない。思いつきで当日知った集まりに行く、などは難しい。


貧困や社会的不利益に考察をめぐらせる時には、資源を機能に変換するためにかかるコストを、物理的・心理的負担の両方から正視する必要がある。A.センが提唱した「ケイパビリティ」の制限、剥奪は様々な局面で起きているが、支援や補填を得るための情報にアクセスすること自体が困難であるか、莫大なコストがかかるケースがある。置かれた境遇や属性の異なる人々が同じ機能を得るのに必要なコストは同じではない。格差是正を考えるさいに、その人が必要とする機能に対してどれだけアクセスしうるかという観点は、決して万能でないにせよ当該者の置かれた環境に目を向けるために有用であるだろう。