いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

メンバーシップについて

先日、ひょんなことから前職の「その後」を知った。毎年この月に県外移動を伴う大規模な人事異動があるのだが、今年は始まって以来という位の大異動らしい。管理職クラスの県外異動、退職もある。内部異動、非正規メンバーの異動も含めればかなり大がかりな変化である。何だか、感慨深い気持ちが押し寄せる。
異動は10月1日付のはずだから、県外へ出たメンバーは二週間にも満たない期間で引継ぎ、業務完了、引越し、挨拶を行う怒涛の日々を過ごしただろう。同じ業界とはいえ違う土地、違う部署へ行けばこれまでと全然違うメンバーと仕事が待っており、慣れるまでは大変だろうなと思う。むろん県外より単身赴任のかたちでここに数年を過ごした人は、問題山積みの現場を離れ、愛する家族の待つ馴染みの地へ大手振って帰れるのだから嬉しいにちがいない。

さてこのように、どんなに煮詰まった現場でも異動があればそれまでの諸々を強制リセットさせられる。管理職クラスまで変わるとなると、それまでとは異なった仕事のやり方を余儀なくされるかもしれない。それでも新たなメンバーで、嫌々ながらも新たな関係を作っていくしかない。それはお互いとても大きな負荷を伴うことだけど、正規雇用でその会社の「メンバー」として認知されているだけまだマシと言えるかもしれない。

前職だけでなく、今やどこの職場もそうなのだろうが、非正規雇用労働者の働きなしに仕事を回している事業所があったら手を挙げてもらいたい。おそらくそんな職場はないはずだ。その身分は、直雇用か否か、また直雇用でも業界によって様々な職階に分かれ、期間も待遇も色々だ。戦後強固だった日本型企業社会の伝統の影響で、この国には同一価値労働同一賃金の原則も、企業横断的な労働組合も定着していない。同じような仕事をして同じような責任を課されていても、正規-非正規の処遇格差は厳として埋めがたい。

とはいえ、この十年近くでは雇用や身分の流動性をプラスにとって逃げ足の速さ、割り切り方など独自のサヴァイヴァル・スキルを磨く非正規労働者もいる。有能で要領の良い人なら、大都会ではたしかにそういうことが可能だし、頼もしいなと思う。仕事はしょせん生存資源確保の手段であり、ライフワークとはキッパリ分ける!という生き方も十分価値ある生の技法である。

にもかかわらず、メンバーシップについて私が思い巡らせるのは、仕事よりも「学校」で異分野、他専攻、他大学から来た者、さらには非正規身分の学生に対して理不尽な扱いをそこそこ見てきたからだ。

最初から問題含みの国策だった大学院重点化の時期と重なったせいもあろう。本当にそれが生涯身を捧げる仕事かどうか熟慮不十分なまま進学した私の不徳もあるだろう。それでも教育の場では、まあ大学院は研究の場ではあるけれど、学校という空間の中ではただ「教え-学ぶ」というとてもシンプルな行為をベースに日々の生活が淡々と進行していく。
教育はたしかに未来のヴィジョンや希望がなければ機能不全に陥るが(教育困難校が抱える問題のベースはこれである)、教育は「今日行く」(たしかジャパンマシニスト刊『おそい・はやい・ひくい・たかい』なる雑誌の創刊・編集者、岡崎勝氏の言葉)こと、ギリシャ語で自由時間を意味するスコレーとしての〈いま・ここ〉を安心して生きることが出発点であり、また到達点もそこに尽きるだろう。

そういう場で、正統な身分かどうか、お金を払う側かもらう側かは、決して本質的なことではない。畑ちがいであること、現役または専業の学生でないこと、偏差値の低い学校から進学してきたこと等自体を申し訳なく思わせる雰囲気の学校というのはまだたしかに存在している。だが、学問でも仕事でも業界が裾野の拡充を望むなら、メンバーシップの射程を見直すことは必然だと思う。

かくいう自分も異業種で転職して、畑違いであることに当初ものすごい引け目を感じていた。いまも少しそれはあるのだが、おそらくは自分のアイデンティティ確認の意味あいもあったのでしょう。「私はあなた方とは異なるジャンルに居た/居るけれど、それは私にとって大事な自分の一部でもあるのです」と。

しかし職場の人は制服を指して、これを着ていればどんな職階でもここのメンバーなのだと言ってくれる。圧しに圧した業務の工程はいま新たな局面に入り、出来高からみると私は給料もらっていいのかと思う日さえあるが、私は、どんなに試されても今のチームについていくと決めたので、今日はここで筆を置き、感慨から抜け出すことにいたしましょう。