いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を変えたく奮闘中。既定路線から降りても研究と執筆を開花させるには?人生の時間比率は自分仕様に!

時間を分け合うこと

転職して数ヶ月たつ。毎日新たな学びの連続で、作業内容もそのやり方も、前職とは全く異なる世界ながら、少しずつ自分と周りのことをズームアウトして見られる段階へきた、いわきびです。

数日前から仕事では新たな技術習得の訓練が始まった。それは机上で根を詰める作業で、この異業種ならではというか、恥ずかしながらそんな作業が存在すること自体、転職して初めて知った。で、やってみるともう自分の不器用さと、考えすぎてドツボにハマり前進できなくなる性格とをまざまざと突きつけられ、手と目と精神の働きを合致させるなんて相当な鍛錬の延長上にあるー、とこれまた言葉ではたやすく意味づけるいわきびである。


8月は慌ただしかった。外せない対外業務が多かったためでもある。ルーティンワークはしばし流れ、中断し、そちらを優先となった。そんな中、外向きの業務の準備・実施の過程で事業所のこと、関係者のさまざま、長く居る管理職や先輩たちや上司の来し方、事情を知ることとなった。

まあいわきびもいい歳だし、初めて働くわけでもないので世の中の綺麗事ではいかない部分も少しは知っている。が、いま身を置く世界があまりに自分の来し方と遠く、また不慣れなタスクも手伝って元来の不器用さはとりわけ際立って見えたのでしょう、たとえば上司などはその点をとくに心配してくれているようです。

夏休み終盤の、市民が憩う場はよく晴れて賑わっていた。私たちはかなり余裕をもって目的地に着き、準備を始め、業務はぶじ終えることができた。(あとから考えると私自身は無駄な振る舞いや戸惑いもあり、物の配置に関しては反省点もある。)そうして良い時間を残せたなあと清々しい気分で帰路についたはずなのに、上司は一人、内心憤りを抱えていたらしい。

この人はじつに色んな表情を持っていて、それまで就いた仕事が大きく影響しているのだろうが、荒っぽい業界も知っていて、それも手伝ってか時おり面も上げられないほど怖い時がある。で、いったい私は何をしたのだろう、ケアレスミスならこれまで何度も許してもらってきたが、と思いつつ聞いてみると、それは時間管理のことだった。

別に、その日の仕事でとくに誰が何を、というのでなく、私が入職するずっと以前からある、事業所全体の傾向に数えられる「惰性」の指摘である。要するに、時間に対する意識が甘くなるとそれらはお金の管理に少なからず反映される、自分はそれに危うさしか感じないー、そんな内容だった。

私は自分の来し方と今を振り返る。このブログの紹介には「人生の時間比率は自分仕様に!」とある。昨年、わが家は介護問題で大きく揺れた。当時の勤め先はダメな人員配置と人手・インフラ不足のせいで窮した業務をけっきょく担当外の者にまで残業を呼びかけて回し、他にもおかしな業務配分のせいで同世代に病休者を出した。そのはるか前、帰郷するまで所属していた学びの場も、本当はとうに進みたい道でないことに気づき転身をはかったがうまくいかず、奨学金と一部仕送り(親の労働の対価)で繋いで、その借金をいま返している。その専攻も、実務に置き換えると大半がケアワークである。

人が、自分以外の他者のために一方的な献身や犠牲を支払うことの痛みと損失はわきまえているつもりだ。しかし、介護も育児も教育も、ひとえに自分を振り捨てて相手の中へ身を投げ出し、たとえ不可解で矛盾した言動をとろうと相手を受け入れることを起点として、相手の目線に合わせ、その人のために自らの時間をー命を、労力をー割く行為という側面が大なり小なりある。そして、労働以外のあらゆる局面で人手不足が顕著になりつつある昨今、残念ながら個人が自分の時間を犠牲にすることで、この社会の善意がどうにか保たれている状況である。

他人の時間を奪うことのコストをどれだけの人間が自覚しているだろう。超勤前提の勤務や業務工程、要求水準だけが上がった家事や育児介護のケアワークを未払い労働として女性に押しつけること。それらに否を突きつけるなら、やはりどこかで戦略を立てて時間泥棒から自分を救わねばならない。抽象的な表現になるが、そのために必要なのは個人の自立であり、それを可能にする制度やインフラの実現である。ひとは、自己をかけがえのない大切な存在と思うなら他者も同様であり、他者の生存・存在の肯定から全てが始まるならたとえどんな状況だろうと一人の尊厳ある生が維持できるよう、条件を整えなくてはならない。社会保障はそれゆえ属性を問わず個人単位でなされるべきだ。

独学の難しさと不利益を知ったのは学校を出てからだった。何をするにも自腹で、自在にアクセスできる資源は限られている。それでもネットのおかげで情報を拾えることは時代の利点だろう。だが畑違いが本当に独力でとはならず、SNSや現実のコミュニティであれこれ質問して学び、これも、他人の時間を奪うことになるのだろうか?と気兼ねが先立つことも多かった。

しかし、何かと接点を持ったなら、そこには豊かな時間の共有もあるに違いない。一方的に奪い、与えるだけの交通でなく、双方向的な交通を。呼びかけ、応えるプロセスの拡張上に形成される新たな意味を。未知なる他者との相互作用から発見される自己の一面もある。ひとたび時間を意識化し、耳をすませるならば、自ら意図してそのようにしていくことが、十分可能だと思うのです。