いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

断片から世界を知る

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今日はなかなかに忙しい日だった。晴れた日はチャリ通も取り入れようと朝、自転車を転がしたものの、なぜか前輪がパンク。慎重に運転してなんとか職場まで辿りつけたものの、大汗をかいてしまった。


仕事は毎日新たな揺さぶりをかけられる。とはいえ業務じたいは非常に単調で、最終〆に圧されはするものの、今月一杯はこれが続くらしい。上司はそのプロジェクトの管理を人材配分含めて全部担当しており、事業の全体像と段取り、工程、なぜそれが必要か、直近の細かい作業分担や優先順位をそのつど説明してくれる。

これは非常にありがたいことで、かつ私のような境遇ではそうそう与えられる機会ではない、と自分に言い聞かせることがある。私より数歳上の就職氷河期世代の人は、非正規雇用しか就けず、派遣法も転職市場も今ほど整っておらず、それこそ欠け穴に部品でも放り込むように投入され、段階を踏んだスキル習得や年齢に見合ったポストや社会人経験を得る機会がないままで来た例もあるだろう。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉は、そこがブラック企業なら従ってはいけないが、ここへきてようやく耳を傾けてみようかという気になった。

退勤後、近くの自転車屋へ。実はこの通勤路はかつて高校生だった時に使っていて、自転車が不具合を起こすたびにこのお店に世話になっていた。電車でも自転車でも、通勤路には母校の後輩が溢れているわけだが、さほど感慨は湧かない。なぜなら不本意入学者が今も一定数いるだろうし、あるまじき考えだが私自身職に就けた嬉しさ以上に地元残留の忸怩たる思いが先行し、まるでまな板上の鯉みたいな心境でいたからだ。

「どうぞかけてお待ちください」という店主の声でパイプ椅子に腰かける。視界には遠く山地と車道に面して栴檀の木が揺れる。ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」のアウラを想起する。下に視線を移すと店主が前輪を開けてチューブを取り出し、水で洗う様子が見える。理解と洞察が一体化しているであろう技術を、その手つきに見出し見つめている。

遺伝子コード、暗号、計算式、方式…一方に、世界はこれらのものから解明できるとする考え方がある。

他方、それ以前には、世界を書物のメタファーから読み解くアプローチがあった。世界のあれこれは書物の形式で理解され得るものとして記述や体系化が試みられた。

世界を理解すること、把持すること。

人間はつねにこの欲求を持ちこれまで生きてきた。すべての技術(テクネー)には、その行使による現実の制御を含め、生への恐れを克服する意味が込められているように思える。芸術作品の制作や、物語化による意味づけ、神話もそうだろう。

けれど、言葉や数式による汲み取りからどうしてもこぼれ落ちるものたちがある。どんなに謙虚で精緻にあろうとしても、いまだ触れることも目に留めることもすくい取ることもされなかった現実の断片が、長い時間を経て見出されることがある。

世界にはいまだ仮説の射程に収まらない事象がたくさんある。人の暮らし方も様々で、何歳を過ぎたから、何々ができないから、マイナーな土地に住んでいるからといってその生が都合よく終わってくれるわけではないのだ。だからしぶとく生き続けることも、発信することもできる。

私の眼下にも身の周りにも、いまだ発見され得ぬ物事がある。今ある現実はそれこそたまたま存在し得た偶然の産物にすぎないとしたら。

「はいお待たせしました!」。料金を支払いお礼を言って自転車にまたがると、街へ出てお金をおろし、国保と住民税の残りを支払う。後者は過去最低の金額で、賃金が安いと少しは得することもあるようだ。雇用保険の残りが振り込まれたので支払いを済ませることができた。

地元は相変わらずのんべんだらりで危機感がなく、のんびりして、街中は苛立つほど導線が悪い。だが人々はこの蒸し暑く風通しの悪い路地の網目を工夫しながら生きている。

なぜもっと早く、美学や哲学や、その他新しい学問分野と出会わなかったのだろう。そして地方で着実に研究を続けている人たちとも。いまそれを言っても仕方がないので、私は明日のために身体を休めよう。

ろくな構成のない文章になってしまったが、手中に収まらない出来事と日々向き合っているということで…ここまでにいたしましょう。