いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

これからの暮らしとマイ・ウェイ

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祝福を。

就業開始日が迫っている。明日からはまた働く日々が始まる。基本平日8時間で土日祝休なので、世間一般からみたらかなり恵まれた条件だろう。正社員ではなく期間ごとに勤務成績をみて更新ありというしくみ。それでも給料は非正規にしては今まで就いた仕事の中で一番良い。これで奨学金返済のほうは少しずつ繰上返還してゆけば約一年半で完済できる。職場そのものは実際働いてみないとどうだかわからないが、肩の力を抜いて、慣れることに専念しよう。

職業訓練を退校するとき、教室のお友だちが言葉をかけてくれた。おめでとう、そして、あんまり思いつめないように、と。


実は、教室のお友だちとはあんまり密な関わり合いをもつことはなかった。もちろん挨拶や、簡単な身の上話はする。初日には全員が自己紹介もした。クラスの雰囲気は良く、皆静かに淡々とスキルの習得や試験対策に励んでいる。一方休み時間には結構赤裸々に自分の来し方やプライベートなことを喋っている人もわりと居た。それは心をほぐすのに役立っただろうし、生き方や人生観の参考となり、働くことは生活の一部にすぎないとか、世の中にはあきれるほど色んな人がいて面白いとか、勉強になることは多かった。

ただ学校というのは労働への移行という観点からみると、どうしてもモラトリアムな場に位置づいてしまう。私は一刻も早く稼がねばならず、もともとは転職とともに県外移住を考えていたため、やや大げさに言うと短期間とはいえ学校生活に安んじることに対して危機感をおぼえていた。

それが結果、地元で働くことが決まったのでひとまず安心、と周りは見るのかもしれないが、ひそかに忸怩たる思いもあった。

私は転職を移住とセットで考えていた。が、それがうまくいかなかったのはブログに書いた通りである。働き方も変えたくてあれこれ調べたが、在宅やフリーで稼ぐにもタイミングが悪く(4月に応募した地元求人で選考途中で長く据置き→結局不採用、その間仕事を受けるどころかバイトも入れられず)、派遣で働こうとしたが交通費と通勤時間と家族の難色などで受けることができず、細々求職は続けたもののさいごに残った選択肢は地元で職業訓練受講だった。

もちろん、学ぶ機会を与えられたこと、働き先が決まったことには感謝している。だがこの半年間を振り返って自分の意志や自分の価値観で選べたことの少なさに失望し、これで自分の人生を生きていると言えるのだろうかと苛立ちをおぼえもした。

働いて稼ぐ。住むのは地元、実家。稼いだお金は返済へ。人生が上手くいって、できるのはそれだけ。合間に研究や執筆をやればいいじゃないかと思うかもしれないが、いわば片手間に成就できるものでないことは解っているし、まあそれでも、やる。
ことし三十半ばを過ぎた年齢からいって、全てが片づく頃には四十前である。それはよいとして、歳をとってから、価値観を受け入れあい、気軽に交われる友人が近くに少ないのはどれほど味気ないだろう。地元ー市内、県内ーにいる友人は全員私の生活圏から遠くに住んでるし、家族のことや仕事の都合で休みも合わせにくい。対して、今回の転職&移住を勧めてくれた友人たちは県外で暮らしている。自分が今後生きていくロールモデルになるのはこちらの友人だろうと思ったのだが…


ここで、9年前進路が行き詰まったときに人からかけられた言葉を思い出す。「究極の目標の前に、まず生活の基盤だろう!」。

言いたいことはわかるが、今はそう思わない。準備が足りないなど考えているうちに、人生は簡単に終わる。死にたくなくても死ぬことがあることを、私は大震災で知った。生涯忘れないであろう避難所の経験は、何かあると余分な常識や価値観をふるいにかけてくれる。

いまは、ネットもあるしSNSも発達したし、こうしてブログも書けるし、着手したことを手離さず地元生活を続けよう。

働く人も、働いてない人も、社会的立場に関係なくやりたいことを実現できるように。その一助として、私も受発信を続けていこうと思うのです。