いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

有限な時間、その分配について

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祝福を。
写真は近所のユスラウメ。
この時期の植物の成長は早く、実るもの早々に熟して枝を離れるように見える。ぶどうの葉もあっという間に繁り、やがて実になる房が育ち始めている。

思うこと。

老いてこの世を去る者と、これから否応なく一定期間を生きてゆく年齢の者がいる。今の日本では両者の置かれた立場はあまりに違いすぎ、その負担はじつに不均衡である。

「人手不足」と称して巷で話題にのぼる生産人口の激減は、たいてい少子化問題とセットで語られる。だが、子どもの数がたんに増えればよい、という問題ではない。

不足しているのは何より「生産に従事できる人口」であって、つきっきりのケアが必要な存在ではない。今のこの状況で子どもだけ増えても「誰が面倒みるの?」という話になる。晩婚・晩産化が進んだ現代なら、介護と育児がまともに重なる人もいるだろう。なのに軽度の要支援介護は在宅でとなり、保育所の数も足りず、介護士も保育士も人手不足である。

生産人口不足と空き家問題。人口減少社会が直面する問題群を甘く楽観的に考える層もいるみたいだが、これは都会田舎を問わずふりかかってくることだ。

対人業務でも何でもサービスの提供者が減り、回せるお金が減り、経済規模が縮小していき、人件費を上げるにも限度がある。全国に支社をもつ大手ならまだしも、実は良心的消費者が最も買い支えたいと思うような、地域に根ざした小規模な個人商店から首が回らなくなってゆく。

人件費の上昇以上に必須なのが、一人当たりの生産性を今よりも上昇させることだ。それも個人への労働強化なしに、だ。でなければ、今まで2〜3人でやっていた仕事を1人でやらなければならない状況が業種職種を問わず溢れるだけで、過労死問題は終わらない。
そのためには機械化でもAIでも導入して、システマティックに業務を回せる体制の整備が要る。

人が生きるにはコストがかかる。それには人手も含まれる。その人手の提供を、私的領域だけを源泉として募ることはもうできない。負担と責任を家庭や個人の内面だけに求めれば、そこは追い詰められて暴力の温床となるだけだ。
子育てでいえば、個々の家庭以外で子どものケアを、どのセクターが、どんな形で、どれくらい担うのか?が地域や学校やその他機関において問われる。

別に子どもや高齢者、病気や障害をもつ人でなくとも、人が一人生きてゆくために必要な生存資源の出処とその分配のありようが、この人口減少・労働力不足社会では先鋭に問われるのだ。

高齢者だけがその住まいを管理していくのはどんなに健康な人でも難しくなる。不動産というのは維持管理するだけで莫大なコストがかかる。歳をとった住み手のいなくなった家、庭、畑の手入れや片づけのために、その子世代が休日のたびに車で一時間以上かけて現地へ通う。生産人口である彼らはふだんは仕事、人によっては子育てをしている。現在の自分の養いに加えて次世代の世話、旧世代のケアー。

人生は有限だ。豊かに過ごすには、究極のところ個々人の時間比率がどうあるかにかかっている。自己の存在と時間尊いなら他者のそれも同様である。有限で貴重な人生時間の分配を犠牲なく行うために、大きな機構や個々の決断はあるのだとしみじみ思うのです。