いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から、働き方や住まい方を変えたく奮闘中。人生の時間比率は自分仕様に!

ひとりごはんは立食いで

祝福を。

日に日にやる気というものを失いつつあるようで怖い。

煮詰まる。


親は今介護で必死で、付き添い用の弁当というのを数食分自作し、朝早く車で出かける。その必死さというか常人の倍タスクをこなす雰囲気を見ていると何も言えない。

揺れ動く自分。

訓練は決まったが、その受講後に待っている未来は地元で社畜労働。奨学金を返済し終えたら何が残るか。歳をとり、田舎で暮らす自分。
海外移住も子育てもフリーランスも新しい住まい方も経験せずにただ歳をとるなら、生き残ったことに意味はあるのかなど良くないことを考える。

なまじ難解な本を読むと停滞したときにしんどい。自分の気晴らしが下手なのは判っている。でも、読書や勉強がいくら有益でも、いや有益であればなおさら、その先、ここ以外の場所に出られないことがふがいなく悔しくてならない。

最近気づいたこと。

私には、家で一人の食事に対して、なるべく静かにスムーズにシンプルに無駄なく終えたいという欲求がある。家族とはできるだけ顔を合わせたくない。同席するとほぼ決まってそこにはテレビがつき、わずかなネットリテラシーのある人間なら瞬時に嘘と見破れる情報を拙い粉飾で放映しているのに居合わせるからだ。

私がいつも座る席はダイニングの奥側で、流しのある台所で作ったり盛り付けたりした料理をいちいちそこまで持ってゆくのが面倒だ。加えてテーブルを拭き、あるいは口を拭いたティッシュを捨てるためにちょいちょい席を立つ。その手間が無駄なので、一人で食事をつくり頂く時は、そのまま台所で立って食べている。

行儀が悪い、と言われるのは解っている。だがこのやり方は、思いのほか自分の手元に集中できる。視界に映る向かいの庭も隣のベランダ越しに見える空も、すべて自分の領界だ。


いつだったか、郊外へ自転車で散歩に出た折に、広い道でトラックが一時停止するのを見かけた。運転手は顔を上げて菓子パンをかじっている。運転マナーからいえば良くないことなのだが、この人のフロントガラス越しに見える風景はきっと自分だけの快適さがあるにちがいない。周りは麦畑か野原のだだっ広い中で、店に入る時間も省いて働かざるを得ない労働条件はもちろん問題だ。しかしこの人がこの風景の中で経験しているのは、誰にも邪魔されない自分の世界だろう。

私が台所から求めるのもたぶんこれと同じ経験だろう。

かつて住んでいた街には立食いそばの店があった。かき入れ時の昼休みに周囲には目もくれず食べた。その向かいにはビッグイシューを売る販売者さんが立っていた。雪の降る日も。
この光景は地元にはない。ないが、あの時と同じような行き詰まり方をしている今、同じような自分の世界をどうにかしてつくり出そうとあがいていこうと思います。