いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

麦秋

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郊外では麦が色づいてきた。

藤は散りかけ、えんどうは次々実り、空豆はぐんぐん伸びる。

何のかんの言っているうちに季節は過ぎる。

人が伸びるのも衰えるのも、実はゆっくり徐々に、緩慢な営みなのかもしれない。


麦の色づき方は面白い。それぞれの敷地ごとに熟し方は異なり、同じ畑、一本の穂であっても色はまばらだ。成熟と未熟のあいだをさまようように、粒は少しずつ黄金色を増やしてゆく。

「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの実を結ぶべし」(『新約聖書ヨハネ福音書12:24)

この聖句はよく自己犠牲の肯定のように引用されるが、それはちがう。

「死」という言葉の強さに引きずられるのかもしれないが、文字通りの意味ではない。もし個人が、有限な人間世界の、自分の命にだけ固執すれば、命は「ただ一粒のまま」、ただ孤独なまま自己のうちにあがいて終わるだけである。しかしそうした執着をやめてそういう生き方を断ち、無限なる絶対的な命ーすなわち神ーに連なれば、「多くの実を結ぶ」。

だが、これまでどんなにか、自分の命や身体を使い、真に他者の役に立つ生き方を模索した人たちがいただろう。不器用だったのかもしれない、時代が悪かったのかもしれない、技術が追いつかなかったのかもしれない、しかしそれでも人として生まれながら他者と結びあえず、世界と和解し得ず死んでいった人たちはこの失われた二十年で数多いる。

それがずっと考え続けるテーマかどうかは知らない。3.11が起き、津波原発事故が起き、はては「東北だからまだ良かった」がまかり通っている。阪神淡路の時より情報や意見の発信は容易になったかしれないが、表象されなかったことに人々が目や耳を傾けないこと、その傲慢さをあらためて思う。

すべては一粒の命に。五月の地元を眺めつそう思う。