いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から、働き方や住まい方を変えたく奮闘中。人生の時間比率は自分仕様に!

いまの私とオルタナティブ

祝福を。

今日は、母が少し体調を崩していて家事掃除を一通り済ませてから夕方外出した。両親はいま親の介護で行ったり来たりを繰り返しており、母はそれプラス、パートもかけ持ち中。昨夜はその集まりに出て遅く帰宅し、朝目覚めるとダウン、とあいなった次第。

連休中だけでも私が入ろうか?と提案したものの不要だと言われる。じつは昨年初夏に介護の件で大ゲンカして以来、いわきびは関わってない。そもそも車で1.5時間はかかる場所へ早朝運転して出ていくことじたいペーパードライバーの私には無理だし(とはいえ一時期教習所に通ってペーパー用コースをがんばった。が、自宅の敷地入れがどうしても難しく複雑な場所にあるのと、横に乗った親があまりにボロカス言うのでもうこの家の車は二度と運転したくない)、参加するなら経管栄養のチューブやオムツや体位の交換を覚える必要があり、一度や二度で慣れるもんでもなさそうだ。

そうこうしているうちに職業訓練の選考が近づくし、もし開講したら毎日あっという間だろうし、一年間もすぐ過ぎるだろう。母は久々に終日寝て過ごし、だいぶ良くなり明日には出勤するつもりらしい。両親は今のところ仲良く元気に親の介護をやっているが、いつ何が起きるか、もしもの時のことも覚悟を決めている。ここで暮らすと決めた以上、わたしが介護を担うこともありうる。


田舎暮らし、地方移住、ノマドワーク、フリーランス… それらはみないわば広義のオルタナティブ・ライフに連なる。首都圏生活を相対化し、日本以外にも視野を広げ、会社に縛られず、正社員に執着せずむしろあえて非正規で融通のきく働き方を選び、賃労働とライフワークを分け、ヘテロ・セクシャル前提の法律婚にも血のつながった子どもをもうけることにもこだわらない。

私もそれらに共鳴するし、自分もそうしたくて秋から奮闘したものの、手放せたのは前職だけであった。三月下旬から四月にかけては何もかもうまくいかず嵐のようだった。が、いまの自分には机とPCと読み書きの時空間が有る。とくに難解・晦渋な本を読むこと、外国語の学習にはうってつけの環境が到来している。それらがモノになるか、結実するかは別として。しかしそれを言い出したら、たとえば大震災で生き残った意味もないとだれかに言われたらそれを受け入れるのだろうか。肯定したところで、生きるのをやめるつもりもないし、その必要もないし、そういう言説をはねつけてこその倫理なり文学なり哲学なりではないのか。

SNSは、人を煽るにはマスメディアよりずっと正確に狙い通りな効果を持つ。社畜を脱すること、個人で発信し稼ぐこと、単身生活を送り親との同居など論外、みたいな論調や流れはある。けれども私はここで、同じ価値観を持ち自分が賛同する味方にも「隷属しない」で居る大切さを自分に言い聞かす。どんなに正しく時代の活路となり、自分が理想にできる思想や人であっても、いまここに生きる自分への否定にしか機能しないなら、それはやっぱり距離を置いたほうがよいだろう。

初夏の陽射しが注ぐ中、空き家の草刈りに来た近所の人と挨拶する。家主が亡くなりもう三年が経つ家で、離れ住む御身内の方が暇を見て片付けに来たりシルバー人材センターの人を派遣したりしてようやく整った空き家である。わが家の介護問題ふくめ、地方の実情はこんな感じだ。

さあ風呂へ入って明日からの日々を生きよう。資金や体力面で負担のかかる移住よりも、いま地元・実家にいながらできる攻めの姿勢を、前へ進みながら探ってゆく。