いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

家庭の有意味性を疑う

祝福を。静かな日々を過ごすいわきびです。

 日曜日に、4月初旬に応募し選考中だった地元求人はけっきょく不可の連絡をもらった。他に応募中の求人はあるものの、以来晴れて自由の身となった気分である。職業訓練の申込を終え、その選考と開講までは自分の時間を過ごすことにした。大した進捗はないが本を開き、また語学の学習を進める。

 とはいえ、家族はいま大変である。祖父と祖母の介護。母はそれに加え、もう十年以上かけもちでやっているパートの仕事。家事は私がやるにしても、じつは母のほうが何倍も動きが速くかつ炊事等のイニシアを執っているため、いわきびが着手するのはすでに在るベースの流れへ頻繁に手を入れるていどにすぎない。まあでもそれもよい。

 この歳になって、家庭とはまともに取り合うべき場ではないことをやっと自覚できるようになった。語弊のある表現だが、私にとって家庭とはまず理論が絶対的に通用しない場である。感情と慣習による支配と、あらゆる世俗的なものの集約。その場を和ませ取り繕うために、自らを曲げて愚かな言動をとり、笑いを誘い、チープな食物やテレビや日用品といった明らかに価値がないと解っているトピックを(あるいは複雑で深刻な社会問題をも)世間話のネタにし消費することが必要な、どうしようもない場である。そんな場を、戦後日本は高度経済成長に乗じてすべての人に作る機会を与えてきた。

 近代化以前あるいは明治初期には、生涯独身で過ごす人も一定数いたらしい。それが当時の社会規範に沿うか、生きやすいものかは別として、「国民皆結婚」は常識でもなんでもないことが下記の本を読めば解るだろう。

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 思うに生涯未婚率含め、結婚しない人の割合が増えるのは、収入の不安定さや子育ての経済負担が大きいこと以上に、結婚を世話する力というか、いわば結婚の「膳立て」能力を、社会も世間も家庭も会社も持たなくなったことが大きな原因だろう。仲人をやれるだけの度量をいま何割の夫婦が持つだろう。家と家の結びつきが重視された時代に高度な処世能力を要求されるのは、結婚する当人よりもむしろ仲人のほうだと思う。昔なら結婚話など適齢期に親や親戚が勝手に進めて、当人は見合い写真だけ見せられて対面は結婚式当日、という例も数多あったろうし、そのばあい夫婦関係はゼロからのスタートだ。だが仲人は、すでに一定の家風がある両家を納得させ、釣り合うように話をうまく収める関係調整技術が要る。バカ正直ではやってられないだろう。

 近年の上の世代を見ていてつくづく危険だと思うのは、子ども、広く次世代はまるで雑草のように時期がくれば勝手に生え、花咲き実を結び、放っておけば再生産もしぜんにするだろう、という前提を持っていることである。そこには意識的は愛の傾注も(愛とは意志の営みである)、忍耐と表裏一体の信頼をもった接し方も、成長を促すためにあえて手を引いたり口を出したりすることを含む教育技術の要請も、ない。教育が「目的意識的な統御」だと自覚する機会をもたずに育ってこられた世代なのだ。
「努力すれば良い暮らしが手に入る」や「良い学校→良い就職」、「働けば食べていける」という前提が通用したのは、日本の企業社会や日本型雇用慣行がそういう前提を成り立たせるだけのシステムを機能させていたからである。それらが解体した今、人材養成のコスト—手間や金銭負担や忍耐力-を放棄して「即戦力」だけ求めれば、後継者などいなくなるのが当然である。

 家庭をつくる契機も条件もコストも消失しつつあるいまのこの国。それが悲惨だの憂うべきだのとは思わない。人は誰かに許されて生きているのではないし、お家存続の手段でも、遺伝子の乗り物でもない。大切なのは個人の眼に映る世界、肌を通して知覚される情報を通して結ばれる像、生きられる時間にほかならない。