いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

生産と消費、与えと受けとり

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祝福を。

実はこのブログ、ほとんどがスマホからの投稿であり、写真の掲載や紹介したいサイトのURL貼り付け位しか自分で工夫する余地がない。情報の詳細、過去記事の引用、文字の編集など記事を自分仕様に編集する作業はやっぱりPCからでないとできない。

あれほどこだわっていた自分の机は愛用しているけれど、レジメを作ったり文章を書いたりという「生産」に関わる作業はあまりできていない。身の振りがいまいち定まらず(過日出した県外求人は今日書類選考で不可の連絡が来た。地元求人からは音沙汰なし)落ち着かないせいもあるが、前回の失業期間と違って金銭問題ゆえに夢も抱けない状況で失意に腐りかけているせいでもある。

スマホばかりでパソコンを使えない若い人がいる、と嘆く声をSNSでよく見る。困るだろうなあとは思う。スマホは便利だがあくまで消費の道具であり、自ら目的的意識的に何かを発信しようと思ったらパソコンからでないと無理だ。
だが、彼らの親世代は使えるとしたら仕事上必要でパソコンを覚えた人たちだろうし、当時はパソコンは高級品だったし、携帯、パソコン含む通信機器全般を贅沢品と思ってる人もまたわんさか居るし、そういう家庭に育ったらいったいパソコンの操作をどこで覚えるのか?スキルを習得する機会がそもそも一律に公的に保障されているのか?されてないならPC使えない若者は機会を奪われた被害者ではないかと私は考える。


ところで、生産と消費はそんなにきっちりとその境界線を引けるものなのだろうか。もの作りや、製品の製造、作品の制作なら比較的簡単かもしれない。労働は?お金を稼ぐ側と、ただ使うだけの側。これはハッキリ分けられそうだが、上客によるお店での消費は、良い品を選び、良い雰囲気を創り、善の拡散につとめ、その業界の健全な市場形成に貢献しているかもしれない。これは一つの生産と言い得よう。

生産と消費、産出と享受。やや拡げて、与えることと受けとること。一般に、価値をもつとされるのは後者より前者である。しかし、何かを〈つくる〉行為において常に先にあるのは後者の方ー「受けとること」の方である。人間が行い得る〈つくる〉とは、しょせん既存の何かに変化を加え、またそれらを組み合わせ、相互作用や化学反応によって、新たな別の何かを出現させることである。そのためにはまず、何かが〈在る〉ことを認めること、気づくこと、発見することが全てに先立つはずだ。

だから大切なのは〈在る〉(それがいつからか、という時間性の問題はともかく)を見出す力である。これまで在ったにもかかわらず、誰にも見いだされることなく埋もれていた何かを見つけ出すこと、それも他ならぬある特定の個人その人の、自己自身を通してでなければ見出されなかった何か。新たな、固有の世界はここにおいてこそ像を結ぶ。ゆえに、「受けとること」、人間の受動性が全ての起点だと私は考える。

むろん、その作品に形(言語なり画像なり表象)を付与し、発信するには技術が必要である。 何かが見出され、それが先在しなかった、新たな、価値ある何かであっても、発信されることなく泡のごとく消えていった、そんな作品は数多あるのだろう。

ただ、現代のSNSの発達と成熟は個人の発信を飛躍的に容易化した。毎日溢れるほど、発信者の眼や手や身体を経た文章や画像(これはスマホやデジカメのフレームを通して)が出回っている。イメージの氾濫。これ以上存在者を増やしてどうするんだろう、という気もする。

写真は先週末の河原。淀みのない、様々な時間の交差する一角です。