いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

参加に値するつながりについて

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祝福を。写真は雨上がりの山桜。

両親はでかけ、家に一人のいわきびです。

この一週間はジェットコースターのようで、いけると思った選択肢がダメだったり、数ヶ月前から予測していたことが外れたり、自分が除外していた選択肢に合致する求人があって応募してみたり。人生ではそんな時があって当然なのだけど、私がイヤだったのは、あの何も手につかない、何をしていても落ち着かない、せっかく一人の時間が持てたのに肝心の自分の内面は嵐のようにネガティブな感情で荒れ狂っているひと時だ。

本のページに目を落とす。文章を追い、その世界に呼吸を合わせようとする。が、そこれ没入することを引き止める自分がいる。

そういうことをしていては外の時間と切断されてしまう。外の世界との接点が消え、どうあがいても小さな枝一本つかむことができず、世の中の淵から落ちてしまうー。

実際にはいま周囲には求人が溢れ、自分の向き不向きや割に合う・食べていける収入かはともかく、労働を通した「社会参加」(と書いてみてもうこの概念が古びているなあと感じる。参加に値しない社会はいくら包摂の網目をかけても構成員は逃げていく)の回路は至る所にある。

働く側に利益が大きいかどうかは別として需給バランスだけ見たら「人手不足」「売り手市場」はどうやら事実だ、と転職活動開始から5ヶ月を経て実感する。この時代でも有求倍率0.18だか0.26だかとにかく求人1件に対して応募者4人と言われる事務職をやっていたいわきびに今ひとつ実感ぎ湧かなかっただけのことである。

働き方改革。何を今さら感の強いこのフレーズには、個々人がもつ有限な時間の配分を、どうにかしてその人自身ではなく社会や国家の側に都合よくこねくり回して与えようという企てがある。一日は24時間しかない。たとえ世界が複数あろうと、どんなに合理化を進めようと、物理的時間の有限性は厳としてある。子育てや介護をしながら会社の都合で残業や長時間労働をするのは無理である。その無理を通せたのは生産人口が大量にいて、働こうがどうしようが家事ケア雑務を引き受ける立場(多くは女性)に全て押しつけ、そうすることが前提の制度設計だったからだ。

働け、稼げ、消費しろ、モノを買え、子どもをつくれ、介護も忘れずに。そう言われてたらそのうちのどれかを、あるいは全てを放棄したくなる層がいても不思議はないし、実際増えている。先日発表された生涯未婚率の数値はその一端でもあるだろう。

「社会的つながり」という言葉が若者支援でさかんに使われ重要視された時期があったけれども、今の時代はそれも嘘くさいと思うのです。なぜなら、既存の社会に紐帯のくびきをつけられ、その網目に包摂するよりも、実のところそれ以外のコミュニティやつながりを思いもよらない形式で形成することが、現在では可能だからです。

今から十年前、 SNSは今ほど成熟していなかった。使い手の数も限られ、使い方もあまり融通がきかず、使う側のルールやマナーもまだ形成途中の段階にあったように思う。機械・ネット音痴ないわきびの私見にすぎないが、あのアラブの春や、「紫陽花革命」だの言われたデモ集会のような事態は、良くも悪くも2007年には起こり得なかった。

若者の就職難や貧困、茶番な就活にブラック企業の実態に対する社会の理解は今よりずっと低かった。過労や、非正規or無職でいることへの圧力で心身を病んだり引きこもったり自殺したりしても、新聞の投稿欄で取り沙汰されるのは「残された気の毒な親」への共感が目立った。

でも、いまはちがう。いまや働かないこと、非正規雇用でいること、モノを持たないこと、少ないお金で暮らすこと、結婚はもちろん恋愛の価値にさえきちんと疑いをもつことを、積極的に選ぶ人たちが出てきた。マスメディアだけが情報源ではないし、それ以外の情報はネットで拾え、気軽に質疑応答もできるようになった。ブログサービスも使いやすいものが登場し、SNSの種類も増え、目的による使い分けも可能である。これらが十年前に普及していたら友人は死ななくてすんだかもしれないのに、という思いが募る。

そうこうしていたら小雨が降ったり止んだりの外も時間が過ぎていく。洗濯物は風呂場に干し終えたから、そうだ花見に行きたい。雨でも傘をさして安全な場所で、麦酒を味わいたい。私はこの先どこで何をしようと、自分の身体から知覚される世界を味わい、自分の立ち位置と世界がどのようであるかを探り、世界への信頼を築いていく。その過程を、時間ゆるす限りここへしたためるでしょう。