いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

私の死守したいもの

祝福を。

冷たい雨が降ったり止んだりで忙しい空模様だった。

私は久々に、本当に約一ヶ月ぶりに、就活や部屋探しや進路模索以外の本を自室の机で読んでいる。文庫本やPDF化された記事とちがい、分厚い事典はさすがに自分の机でしか読めない。Kindle版をタブレットで読むなら別だが、2千頁近くある本をそういう形式で読むことは私にとってまだ不便である。

帰郷した実家には自室として使っている部屋があるが、これも私の帰る直前まで物置同然のゴミ部屋だった。それを、約一週間位かけて不用品を捨て、元々あった机にネット環境を整え、自分のパソコンを設置し、今にいたる。もちろん帰郷後一ヶ月から今まで断捨離はとにかく続け、繰り返した。

いま、ざっと部屋の本棚やボックスを見渡すと、両親の税金関係資料や今では手をつけられていない料理本、趣味の本などがある一方で、私の本と資料を置いてある棚には先日職場でお別れにもらった品々や求人情報誌、職業訓練のチラシ、空ファイルが目立つ。

これらは追い追い片づくとして、今日机に向かいながらしみじみ痛感することがひとつある。

それは、私は自分の机への凄まじい、悲しいくらいの執着心があったこと。

前職を辞めた経緯は、過去記事に書いたので繰り返さない。事務職といえどたかが時給で使われる非正規だったし、特定の座席がなく必要に応じて作業をする仕事はそれ以前の職場でも経験して別に不快とは思わなかったのだが、今回はちがった。私は前職と、今住んでいる実家、地元の街の造りに起因して自分の居場所を失いつつあった。

実家は両親と同居で共有スペースを使う時間は今では各自好きなようにとなっているが、仕事からの帰宅時間、その日の予定や気分や体調で変に重なってしまうこともある。また休日一人で家に居ても、連絡なしに親戚や、町内会の用事で近所の人が訪れたりする。極めつけは、昨年初夏に行われた外壁のリフォーム。瀬戸内の蒸し暑い地獄のような夏に窓が開けられず、換気もとまりエアコンもつけられず、それでも週末自室にこもれば窓には建築業者の作業員の方々が張り付いていらして、とても居られたものではない。お外に居る彼らは口笛を吹いたり歌を歌ったりしてそこそこ上機嫌なのとは裏腹に、いわきびは玄関を開けるタイミングさえ気が引けてうろたえてしまった。

しかしそんなふうだから、家の外に身を置き涼を取らねばならない。一人で居られる店は少ないものの、チェーンのカフェがとてもありがたく案外心地よく、スマホでどうにか読めるものや視聴できる語学学習があるとわかり、良かった。

その工事は約一ヶ月半で終わったものの、どこも壊れていない外壁の工事なんかいまだにお金のムダだと思っている。

まあそれは去年のこととして、今年はどうなるだろう。どれほど家族と言い合いをしても
泥仕合を繰り返しても、自室の窓から見る近隣の風景はのどかだ。周囲は物干しとしての広いベランダをしつらえた家がほとんどなので、明かりをつけたり窓を開けたりしていれば見えることもあるだろう。

足元もこれからはあまり冷えない季節となるし、もう自室の机は好きなだけ使ってよいし、何なら一日過ごしてよいのだと自分に言ってやるべきかもしれません。