いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

〈働く〉に多くを託すムダ

両親が引き揚げた食堂のテーブルでこれを書いている。一杯だけ焼酎の湯割を呑んで、あとは頂いた焼菓子をつまみつつコーヒーで一服している。

いったいなぜ、「働く」をめぐってこれほど多くの人が苦しむのだろうか。一つに、経済のグローバル化に伴う産業構造の変化やそれへ適合の失敗がある。今の国内貧困は90年代以降、なんのセーフティネットもなく日本型経営を解体していった帰結でもある。

もう一つに、古い時代の労働観にもとづいたあるべき労働者像や仕事像(多くは親やその同世代から量産される)がとりわけ地方の若い人を苦しめているのでは、と考える。

私は後者の罪も大きいと思う。親やその同世代と書いたが、そこには小学校から大学までの教員や、広くは労働組合などで労働運動に携わる、そこそこ社会・体制に批判的な人たちも含まれる。

彼らが言い放つ連帯や闘争は、過労死寸前の人や、「安定した」仕事に就けず社会的つながりからも排除されがちな人たちに対して救いになってない。非正規雇用でも種類や待遇にこれだけ差異があり、雇用期間もバラバラな彼らがただ同じ現場で一同に会しているだけ、の状態ではたして有効なのか。

集会やって声や拳を挙げるよりも、たんにセーフティーネットが大事とわかればあとはフツーに今ある雇用保険のもらい方や職業訓練の受け方や条件を教えればよい。

そもそも彼らには、たんなる生計手段としての所得と、やりたいこと、社会参加や社会的つながりといった側面をそれぞれ切り分ける発想がないのだ。ぜんぶ一緒くた。とはいえそれも、他先進国では福祉国家が担ってきた福祉機能を企業内福利厚生という形で全て会社に取り込んできた日本型雇用慣行を、そしてそれを可能にした高度経済成長という歴史的特殊産物を前提とする働き方しか知らず、またそれを基準にモノを考えていれば無理からぬ発想である。

生計つまり生存資源としてのオカネを得るため、仕事の向き不向き、やりたいこと、社会的承認、社会性、社会参加の場、成長の機会等々を、一つの労働に託すこと/一つの労働でまかなうことは、いまやかなり不可能といえる。一つの仕事で実現しようというほうが無理なのです。だから、それら全てを別々に考えて、賃労働以外のことで実現しようと考える若い人たちの見方はとても自然で健全に見えるのです。

仕事はオカネのため。テキトーに必要なだけ稼いであとは自分の人生時間を有効に使おう!みたいなことを発信すると、そんな考えは社会人としてどうか、政治や社会に無関心なのはよくないと眉をひそめる向きもあるかと思いますが。

たぶん、その生き方が既存の制度へのフリーライダー(ただ乗りする人)のように思えるのでしょう。しかし、働く人を食いつぶす企業は、再生産とケアワーク全般にわたる不払い労働をぜんぶ家庭に無償で押しつけて労働者を働かせてきた会社は、個々人の意欲や労働にどれだけただ乗りしてきたか。

また、個人が国家なり会社なりのシステムに関わって参加して制御しようとする努力に20世紀ほどの有効性はありません。組織や大義名分よりも個人が起点で到達点。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」みたいなこといつまで言ってるんでしょう。

もし労働に貴賎がないなら、雇用の正規/非正規、直雇用/派遣、勤め人/自営業、所属を持つ者/フリーランスを問わず労働者であり働く者に変わりはない。
まず 生計のため、とりあえず生きていくため、手っ取り早くコスパ良く稼ぐ。働くことの意味なんかそのていどにとどめ、書類ばかり出させる就活から降りて、淡々と自分なりに世界への信頼を築く方途をめいめい探ってゆきましょう。