いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

いわきび、レールの外へ

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祝福を。写真は昨日河原で眺めた夕景です。

職場はいよいよ引継ぎと次年度に向けた分担見直しのモードに入った。いわきび含め今月末で辞める人の穴埋めに募集をかけ、去る人が担当していた業務の引継ぎ、その前に誰に引継がせるか、引継ぎの時間をいつ確保するかを決めるところ。だが、人の絶対数が足りないのだから何をどう見直したって、抜本策にはならない。それどころかこれから年度末、繁忙期に入るのにヘタにやり方を変えて混乱して誤りが出たらその損失は大きい。だいたい正社員でも非正規でもその人しか担当業務をできない・代替がいない体制で自転車操業をやってきたツケがいま来ているのだ。

人手不足。

今までの私はこれを、飲食店、運送、介護の業界だけの問題だ思っていた。きつい労働であるにもかかわらず社会的評価が低いとか、体力的な問題から歳をとれば辞めざるをえないとか、業界じたいがブラック経営でなければ回らないとかそういう職種で起きていることだろう、と。

だけど、ちがう。人手不足は様々な業界で起きている。そのひずみは、コスト削減で人員もインフラもカットして、あげく現場が回らなくなって事故とかトラブルとか不祥事とかが起きてやっと明るみに出る。その頃にはもう現場はボロボロに疲弊した人間ばかりで、せめて人を入れてくれさえすれば、という単純な要望さえ入る余地がないほど歯車が歪んだまま暴走している。

ちょっとふりかえれば現代は、人口の絶対数が減って、介護を(人の手を)必要とする世代は増えて、生産人口はそれよりはるかに少ない。家庭にせよ地域にせよ職場にせよ、親や祖父母の世代がそこそこの人数で回せていたことを、技術の発達やコスト削減を言い訳にそれより少ない人数で回せというのはたんに暴力ではないか。そのうえ「子どもを産め」「介護をしろ」「高度成長期のごとく働け」「バブル時代みたく消費しろ」という圧力が世間一般の規範枠組みと化しつつあるのなら、これはもう逃げるしかない。

労働がメインでそれ以外の余暇はサブ。
職場が最優先で家庭はその次。
家庭の問題は個人の人生を左右して当然。

職場 > 家庭 > その他共同体 > やっと個人

という優先順位が昭和の価値観では当たり前だったみたいだが、今はちがう。
だいいちそうしてしがみついているうちに、会社や家庭や共同体のほうが先に耐用年数が切れてあっけなく解散する。そして残るのは個人のほうだ。

ただ。

そういう認識が地方で共有される(一般人が意識し危機感を抱く)までにはかなり時間差が必要で、「嫌なら辞めろ、代わりはナンボでもおる」と雇われるほうも雇うほうも思い込んでいる。そういう前提でいたら、いずれ移民の受け入れを果たしたとしても先方から敬遠されると思う。

いま実は、職場の正社員が数人休職している。真冬の体調不良を機に、これまでの無理が一気に祟ったのだろうか。いわきびと完全に同世代。決してメンタル弱そうなタイプでなく、むしろどちらかというとド厚かましい部類に入るキャラだった(そう演じていたのかもしれない)。

彼らの空席を見て、いま絶賛応募中の正社員にもしなったら、わずかな歯車の軋みでこうなってしまうのかと考える。でもいわきびは、いわゆる正社員にしがみつく人のことを笑う気にはなれない。なぜなら「一度くらい世間一般でいう一人前の処遇を経験したい」という気持ちが自分のどこかにもあるからだ。給料だけでなく、親や親戚や同級生やそのほか社会生活で接する人々から「一人前とみなされたい」という欲求は、やっぱりそう簡単に捨てきれなかった。正社員などいくら応募してもなれない、またなれても割が合わない、単一の帰属を迫られて自分の人生など消耗するか、不利な条件が重なれば心身を病むだけだと解っていても、やはりめぼしい求人に「応募する」をクリックしてしまう私であった。

彼らにはただただ回復して、自分の人生を楽しんでほしいとしか思わない。で、いわきびはすでに社会のレールを完全に外れたことを理解して受け入れて、それを強みに既定路線とはちがう稼ぎ方や生きる技法を取り入れていく。レールの内側では決まったことを決まった時期にしかやれず、生き方の幅は狭い。が、その外側では、無限に近いほど多様なコースやルートを描き得るはずだ。自分で作る気さえあれば。

旧い価値観が与えてくれる見返りには、もうそんなに美味しいものはない、とそろそろ見切りをつける時かもしれません。