いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

いま一度、場の影響を考えると

f:id:iwakibio:20170306204936j:plain

祝福を。写真は市内中心部の桜です。
場のもつ力というのは自分が考えている以上に強力で、無意識に人を拘束するのかもしれない。
週末のジタバタ旅から戻り、一拍おいて考えを立て直し中のいわきびです。今日はふつうに出勤し、淡々と仕事を終えてきた。職場ではいわきびの他に、同じ身分の人たちが何人か辞めるらしい。非正規とはいえいずれも主力と言い得る人材なので、残された人たちはちょっとびっくりしたようだが、いわきびはま〜そうだろうな、としか思わない。 皆さん本当にマジメに几帳面に、残業代のつかない範囲で時間の犠牲を払ったり、担当者の負担を先取りして仕事を手伝ったり、時にそれにつけ込まれて仕事を押しつけられたりしながら今日までやってきた。それを、人手もインフラも足りないことを放置し、毎月突貫工事のように担当とやり方を変え、だんだん整合性がとれなくなって歯車は狂い始め、いまや若手正社員が潰れかけるに至ってもう関わるのをやめようと決意したのかもしれない。

それにしても、場のもつ力は怖い。そんな職場でも矛盾を呑んで、機転を利かし、年の功や処世術に任せて何となくまともなメンバーと関係を築いていく人たちがいる。そうして、色々あってもどことなく平和でなんだかんだ言いながらホームドラマのように決められた枠の中で全ては起き、たとえ体制に楯突いても時がくればまた体制へと回帰していく物語のような空気が作られていく。その中で矛盾に気づき、何とか声をあげてもみなその平板な空気に均され覆い隠されてゆく。十分な処世術をそなえていたはずの若手たちもそうやって疲弊したんだろう。

その場に固有の空気は来る人にそこに合わせた所作を要求する。それが具体的にどんなものか言語化できればまだいいけれど、そうとは限らない。たとえばこの地元特有の息苦しさ、窮屈さ、煮詰まりやすさは、本当に風土の厳しい地に住む人たちからすれば一見恵まれて見えるので、合わない人は何に嫌悪をおぼえるのか自分でも自覚できないままごまかしようのない違和感を抱えて日々暮らすことになる。

働く場で最低限のインフラさえなく、身の置き所なくラインをたらい回しのごとく移動してみれば、そこに居ることが命のムダに思えた。そうやってわたしは退職を決めたはずだった。このブログも、働き方(稼ぎ方、生存資源を得る術)を変え、住まい方(どの地に誰と住むかだけでなく、身の置き所や居場所)を見直し実践するために、そしてその足跡を記録するために書いている。

だったら、こっちで職業訓練とか一人暮らしとか眠たい考えが胸をよぎること自体おかしい。ここに身を置く限り思考/志向はどうしてもここの仕様になってしまう。それを断ち切りたくて移住を決めたはずなのに、資金が危ういのと、当初の候補地が揺らいだのとで迷走に陥った。

まず、生活の段取りーとくに身の回りのことをするタイミングーを自分仕様に戻すことを優先する。だったら一人暮らしはまだ譲れない。そのために余分な支出を極力避けて、生活コストを下げる。雇われることや通勤してどこかに通う以外の稼ぎ方を試す。そっちに舵を切る過程でまた別の風景が見えてくるかもしれない。

こうしてる間も労働時間も、アイディアを浮かべては否定し、書き出しては調べている。自分の行動が、行く先々の場に縛られすぎていないか、もっと吟味する必要があるだろう。