いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

思うまにまに

祝福を。
昨夜日付けの変わる前には帰宅し、そのまま布団へバタンキュのいわきびです。
関西へせっかく行ったのだから、一泊してお友だちを呼び出してもよかったなど身勝手なことを考えつつ、それでも疲労のことを考えると帰って正解だったかと思います。

帰郷して、トラムも終わった夜の街をほてほて歩いて帰る。土曜の夜は人が大勢出張っていて、飲食店で談笑する姿がガラス越しに見える。たぶん、仲間内の集まりでしょう。そして、店主らしき人ともお馴染みなのでしょう。アットホームで心地よさそうに見えるその雰囲気は、いわきびにはもう窮屈に思える。
向こうでバスに乗る1時間ほど前、駅近の居酒屋で一杯やった。生中1杯190円という信じられない値段で、食事やその他の酒は普通の値段だがそれでも安い。店員は素早く席を案内し一人客も複数連れもうまく配置して店内に収めていく。注文も速く、つかず離れずの対応がいい。そして客はというと、これも思い思いのポーズやスタイルで呑みかつ喋る。通りに面したテーブル席で男性たちと冗談をとばしながらジョッキを傾けるスーツ姿の女性。学生時代のような気安さで2人がけの丸テーブルを囲むラフな若い男性客。カップルもいる。おばさんもいる。奥の6人がけ席では仕事仲間とおぼしきオッサンたちが肴をつついてのんびり話し合う。

昔、進路が行き詰まって手探りで始めた就活の一環で訪れた大阪のカフェもこうだった。身振りを交えて仲間と笑い合う女性客、本を片手に自分の世界に浸る人、日常の幕間に入ったそのカフェでけっこう深刻な家庭の事情を話す人。大げさな表現だが、人間ってこんなにも自由だったんだ!と思い知らされる一景の数々を経験した。

皆が好きに振舞っているように見えて、そこそこ場が機能し空気が淀まないのは、知らない人との距離のとり方がうまく、言葉や所作を他人との潤滑油とする文化だからだと思う。これは東京ではなかなか望めず、東北の気質では難しく、今の地元でもちょっとない雰囲気なので文化の地域差というのはどんなに均質化が進んだようにみえる時代でもそう簡単には消えないことを知らされる。

この記事は、自室のヒーターの前に立膝をつき、スマホで書いている。手元には本が2冊あって、どちらも平日細切れの時間では読むのが難しいにもかかわらず、この家にいると気が散ってなかなか進まないのだった。階下では、親の介護から戻った父が何やら夕食を拵える音がする。台所が空くのを待って、いわきびも料理をしよう。明日はまだ仕事である。
私が今の勤めや住む場所を放棄したい一番の理由は、自分の暮らす段取りを自分の主導権に取り戻したいからだ。旅先のカフェ居酒屋だけでなく、本当は全ての人がそれぞれの持ち場で、その人の思うまにまに生きてゆけるはずだ、という思いを根底に抱くいわきびなのでした。