いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

私の延長上としての〈場〉とは

同僚が素晴らしい勢いで電話をさばいている。今日の職場は人数が少なくて、でも電話は相変わらず多いので、取れる人はどんどん取って答えるなり繋ぐなりしないと回らない。 黒光りするPC画面の端に目をやると、ちょうど背中合わせなので、これまた凄いスピードで電卓を打つ彼女の姿が目に入る。とにかく集中力とコミュ力が優れていて、同じ非正規の身分ながら部署内の仕事の殆どはこなせると思われる人材だ。

正規雇用者も管理職も、この人が居なくなったら大変なことになる、と無意識に理解しているに違いない。彼女自身もその自負はたぶんあって、そのことが全く嫌味でないくらい純粋に今の仕事に情熱を捧げている。私もこの人から業務の殆どを教わった。で、いま私はこの人たちから離れようとしている。

彼女の机周り、のみならず他の方の机上や机下はめいめいの個性そのものである。作業をしやすいように、余計なものを置かないのは勿論だが、引き出しの陰に百均のフックを付けて手提げ袋を吊るす人、足下のキャビネットに書類を押し込んで放置の人、引き出しの大きいスペースに自分のミニバッグを置いてその中に私物を詰める人、自費で買ったマウスパッドを設置する人もいれば反古紙で作ったメモ帳をパッドにする人もいる。ペン立ての置き位置さえその人の動線を形づくる大切な要素だ。皆自分が使いやすいように様々な工夫を凝らして自分の居場所を主張するー、とまで言うのは大げさだが、机周りの物の配置がその人のフォルムであるのは事実だろう。

そうして洗練されていった〈場〉には、あたかもその人の身体の延長上とでも言うべき特有の安心感や親しみが湧く。自分自身の眼や手や精神の延長、自分の世界の拡張ー、これは大げさではなく、賃労働以外の場、たとえば家庭の台所でも同じ感情が湧くのではないだろうか。その場はその人にとってかけがえのない居場所となり、やがて自分との一体感を覚えてますますその場と自分を重ねていく。例の彼女を好例に、キツイ仕事を頑張れる情熱はこの辺から溢れてくるのだろうか。

いわきびは、職場でそういう場がなかった。もとから作ろうとも欲しいとも思ってなかった節はあるのだが、これだけ「ない」現実を突きつけられると惨めでまた悔しくもなる。

なぜって、3.11をくぐり抜けてきた人ならわかるでしょう?生き残った命をぞんざいに扱うのはばかげているし時間の無駄だ。働くのはお金のため。そう割り切って多くの人が今日も職場へ出かけるけれど、そこで稼ぐお金に(金額の少なさに加えてその額の知らされ方など)価値がない、と思う出来事があったら、もはや出勤するだけ時間のムダな気がする。

どうせ非正規で部品扱いなら自由に泳がせてくれるかというと、そうでもないところが面倒くさい。さきのフルスピード電卓・電話の彼女を筆頭に、お昼ごはんを皆で食べる習慣があるのです。これが、有難い感謝しなければ尊い場のはずだとか頭で言い聞かせても、いわきびには煩わしい時がある。休憩時くらい自分の時間を許してくれ。家族住まいで一人の時間が、ものを読み書きするには孤独の時間ぎ必要なことを、この人たちの価値観では理解できないようだ。で、そんなこんなで行き着くとこまで気持ちが行って今に至る。

たとえば端末画面の高さや傾きをその人の目線に合わせるように、仕事をする空間では、どれほど通るかはともかく、自分の裁量や主導権、段取りの余地が必須となる。保育や介護、教育、営業、接客など相手ありきの対人業務でさえ、円滑に仕事を回すには、そしてチームワークを形成しパフォーマンスを上げるには、一人の労働者が主体的に関われる領域を意識的に作ることが重要だと思う。なぜなら、素材なり他人なりを対象に何ごとか働きかける営みとは、自分はどういう立ち位置で、何を要求されていて、何を選択し、どう変化すればよいか、自ら理解して実践することーその試行錯誤ーの繰り返しだからだ。介護や育児など、徹底して相手に合わせてがんじがらめに見える行為でさえ、否むしろそういった行為にこそ、相手に合わせて自分で自分を変えられる枠や余白、自由がなければたちまち行き詰まる。

そういう自由を取り戻したくて、私は別の場所を歩むことにした。資金の問題はあるけれど、今日こうして書いてみて、これがあらためて気づいた動機であった。