植物のフォルムが好きだ。
彼らはこちらが意識しようとすまいと、いつも巧みな美を与えてくれる。
その出会いはこちらが眼を凝らして何かを隈なく探す時ではなく、むしろ一切そうした出会いを意図せず自分の生活時間に浸っている折に突如、訪れる。
それは、こちらの心の準備とは全く関係がない。対象のほうから迫ってくる。たとえば台所で見つけた野菜の芽、期せずして葉物に咲いた花、あるいは勝手口の窓越しにのぞく隣家の庭木や鉢植といったものでさえ、対象のほうが自分を惹きつけ、捕らえるのだ。
むろん、こちらが抱く欲望や利害とも関係がない。そういう感情で対象を把持しようとしても、それは下世話な関心や淫猥な眼差し、欲の掌をすり抜ける。あるいは包み返しさえする。
意図や意志とは無関係に訪れ現れるそれは、まったき偶然でもある。自分の意志、意図、制御の及ばぬところ、また予測不可能性、そういった要素の凝集という側面もある。
だが、自然をこのような捉え方で把握するならそれは近代以降のものの見方にとらわれている証でもある。事実としての自然は、無限にある可能世界の一つがたまたま現実化したものにすぎない、と。
私たちはいま、可能世界の無限性に何か希望のようなものを投影して救われようとする傾向のなかに生きてはいないか。いま居る世界や自分の置かれた現実はたんなる偶然にすぎず、選ばなかった道や実現しなかった選択肢の重さまたは儚さをもって現実も同じように意味づける。
そこで問われるのはけっきょく個々人の納得や承認、了解である。そこに伴うのは自発的・能動的な何かー、実はこれまで説明されてきたあり方とは異なる能動や受動の絡み合う場が拓けるのだろう。対象に捕らえられるのか、私たちが見いだすのか、惹かれる何かとの相互作用には、発見による創造という地平が待っている。