いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

学校は防波堤たりうるか

働きたくないから進学する、ということが学校へ行く主な動機として、これまで暗黙にまたは公式に共有されてきたように思う。

もちろん義務教育は有能な国民養成を目的に富国強兵の一環として行われたし、学校で学ぶスキルが職の確保と直結している分野(資格取得のためのコースなど)もあるし、職業訓練校は何より仕事に必要な技能習得のために存在する。が、そこで行われることは、実習にせよ訓練にせよ、どんなにリアルに近づけてもしょせん「ごっこ」でしかない側面がある。モノ金のやりとり、交渉が即命のやりとりに結びつくような、きわどい生々しいスラム街の現実みたいなことは、少なくとも学校が掲げるフォーマルなカリキュラムには含まれていない。
いくら再生産機能や「隠れたカリキュラム」をもつにせよ、学校はむしろ剥き出しの現実社会から子どもを守り(近代初期に学校は過酷な児童労働から子どもを隔てる側面もあった)、またそうした社会を相対化し、学業で優秀な成績を修めることによって良い就職先を得て社会的上昇移動を果たす機能を一定程度果たしてきた。(1970年代半ば以降、この学校化社会の矛盾やひずみは顕著になるが、ここでは扱わない。)

ところがいまはどうか。制度的学校はもはや、初等から高等まで行く人に不利益な社会的立場を付与する場に、期せずして成っている気がする。

就学によって労働メインではなくなった期間をキャリア・ブランクとみなすという雇用観、定時制高校や夜間部のある大学以外では「働きながら学ぶ」生活様式を設計外としたカリキュラム、自費負担割合が大きい授業料、借金でしかない奨学金ー。
たとえ社会人であっても「学生をやること」は色んな面で社会的弱者の立場を選ぶことと同義である。非正規労働者の中でも学生アルバイトにあんな劣悪処遇が通るのは学生である弱みにつけ込んでいるからだ。学校は世間の荒波に対して防波堤の役目を果たすという前提は、現代では的はずれである。

しかし、それは学校が実態として遂行してしまっている機能のことを指すのであって、学校が社会から不必要になったことを意味するのではない。学校を必要とする立場の人は、いる。学校的な役割(主に目立つのはパストラル・ケアや託児機能であるとしても)を果たす場も、要る。
ならば私たちはいったいどこで、有用な「学校的な場」をもてるだろうか。既存の学校は、不登校当事者の発信の一般化もあって随分相対化され、その問題点も挙がってきた。学校という制度や箱物を外してなお残るコミュニティ的な機能、対話の場。そのためには地縁や階層を飛び越えやすいつながりの可能性(インターネットはこれに良い道具だろう)をもっと洗練した形で呈示しなければ、と思うのです。