いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

幸福の求道において

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幸福のかたちは本当に人さまざまだ。そこに金銭や財産の多寡、性愛へのアクセスなど含まれるとは限らない。世間の軌道を降りる生き方を積極的に選んだブログ発信者の記事を見ていると、団塊世代が前提としてきた幸福の条件や形態が、いかに時代限定的で特殊なものかを痛感する。
若者の貧困が語られるとき、「収入が低すぎる→ゆえに結婚できない、子どもをもうけられない」事実が少子化の原因としてよくあげられる。それは現実問題としてまちがってはいない。ただ家庭や子どもを望む人たちのすべてが、今の団塊世代が前提としてきた家族像を必ずしも望んでいるかというと、それはちがう。
結婚する/しない、しても法律婚/事実婚、パートナーと同居する/しない、子どもをもうける/もうけない、子どもがいる場合も血縁あり/なし、とざっと思いつくままに挙げてもこれだけ多様なパターンが今日の家族形態にはあるのだ。
家庭をつくらない、またはパートナーを持たないで独身のまま生涯を終える人は、いつの時代にもどこの社会にも一定数いた。それが、生きやすいかどうか、当該社会から認知orカウントされていたか、どう評価されていたか、はまた別の話である。
一般に、宗教に身を捧げる人は肉の交わりを断つ。恋愛も性交渉も生殖も放棄して、求道のなかに使命と幸福を見出す生き方を選ぶ。食の快楽に制限が伴う場合もある。そうした宗教は、俗世の愉しみを凌駕するだけの恍惚感が伴わなければおそらくかんたんに潰えてしまっただろう。

いまや、やりたいこととのつきあい方も十人十色だと考える。マネタイズして生計手段にするか、趣味で楽しむか、収益化を目的としないがプロボノみたいな形で社会貢献するか。メイン団体に所属するか、しないか。仕事も家庭も教育も社会的活動も余暇も、あえて言えば学問の世界も、リジッドな形式は解体するか相対化される方向にあり、年齢や社会的属性、所属に関係なくアクセスフリーでやれる時代が来つつある。

ただ。

自分に合ったやり方に出会うには試行錯誤が必要だ。そのためのコストはそれぞれにかかると思う。その過程で気づくかもしれない。自分の人生に代用がないのと同様、その時々で真に求めるものを別の何かで代替することはできないことに。
そんな時、人が学ぶという行為は、世界と渡り合うその孤独な手探りの道行きに必要な仲間を授けてくれるものだと思うのです。

なんとなく手に取った本。