いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

その人から現れる世界

祝福を。という挨拶も、何だかいつも書き出しに使うには相応しくないのかな?と思うようになった。これは、「汚れなき祈り」という東方正教会の修道院で起きた事件を題材にした映画の中で、修道女たちが朝の挨拶に使っていて、生の讃美と肯定に相応しい、と思ったから使っているものです。彼女たちが過ごす小部屋も、ちょうどわが職場で昨年夏まで居たフロアと似ていて親しみが持てる。この挨拶でその日を始められたら、と思う。

さていわきびは無事旅先にたどり着きました。感謝なことです。用事はともかく実際には完全に気晴らし遊びで、家族やイベントの提供者たちには少々気がひけるが、こっちも平日は仕事で散々嫌な思いをして激安賃金で働いてるのだからトントンだ。

ブログの世界では、旅先や自分の住んでいる土地の魅力や事情を伝えるタイプのものもある。今や世界のどこからでもスマホで写真を撮り、記事もスマホから書ける時代。旅先でも居住地でも、その土地のレポートはそんなに力まなくても気軽に書けるようになった。

が、そういう記事をめぐってバッシングが起きてもいる。地方移住や海外移住を実現した人の記事に対して「そんなバラ色の良いことばかりではない」「情報が不正確だ」という内容の批判が上がるのだ。

私は、記事の性格によっては、その批判は的外れだと考える。その人たちはなぜ、あれらをたんなる読み物として受けとめることができないのだろう。「消費」という語は真面目な、社会に対して批判的な視線をもつ人々にとって不真面目で徒労で無意味な意味合いを与えられているけれども、それはメディアの性格上当然の帰結とも言える。何より、いくらグローバル化の時代と言っても多くの労働者は今いる場所や待遇で何とか凌がなくてはならなくて、そしてグローバル化するより前の時代から面倒で気苦労の多い日々を乗り切る知恵として、食や風景やアートや美的経験の消費はなされてきた。だから、居直りと言われても消費を狙って記事が書かれるのはやむを得ない側面がある。

帰郷する前に住んでいた土地で、私は紀行作家として写真や文章を発信する人の家にバイトで出入りしていた。「まあ多少はハッタリも効かせてるんだけどさ」と言いながら見せてくれた写真はたしかに技術的な修正も施されているものの、あの手の写真はその人にしか撮れない何かがあるんだろうと漠然と感じた。今ならもっと優れたブロガーや発信者が居るのだろう。あの手の記事は要は見せ方で、編集能力や人目を惹きつける技術を持つ人なら、自分のSNSアカウントで容易く発信してしまう。そしてpvも稼げるだろう。

だが、紀行文というジャンルは誰でも良いものが書けるかというと、私は違うと思う。今と比べて解像度の低い画像、国外についての少ない情報量、何より行くも調べるも海外へアクセスが圧倒的に不自由だった昔と比べても、今の紀行文が格段昔より優れているとは思わない。

なぜなら、紀行文で書かれるのは書き手を通して現れた世界だからです。どんなに善きものが詰まった土地も、また魅力の欠片もない土地も、書き手の眼や手を経てしか切り取ることのできない何かがあるからです。そこに現れるのは、書き手にとってのその地である。書き手の身体を経てしか結ばれない像があり、読み手はたとえ書き手より簡単にその地にアクセスできるとしても、書き手が切り取り表現したその地を見たいと望む。その地は訪れる人ごとに無数の姿を見せるのです。いつの時代もこうした欲望が消えることはない、と私は考えます。

写真は旅先の駅内トイレに生けられた花。ムシカリがよく映えて味わい深いものです。

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