いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

できることと成ること

〈できる〉は快感だ。自分の望む何事かを、自分の自由意志にもとづいて、道具や自分の身体を制御することによって、実現する。〈できる〉は自分の、自分が制御可能な領域を拡げる。同時に自分の周囲を自分が生存するために調整する。そうして〈生きる〉の幅を広げてくれる。

ICT革命以降、メディアを使いこなせる個人にとって〈できる〉の幅は格段に拡がったに違いない。ネットとアプリを活不可能すれば、前世紀には不可能だったサービスが実現する。SNSを通して個人が発信することー所感や考察を他人の目にさらすことーは、ガリ版刷りの通信やミニコミや紙の雑誌なんかよりはるかに容易くできる。生活を自分仕様にデザインしカスタマイズする、これもスキルの有る人には可能となった。ライフハックが提唱するのはそれだろう。のみならず、器用な人なら構想から実現までの隔たりはグッと短縮する。まるで神がするように!

そうだ。近世以前は、世界を説明するために神が必要だった。近代科学がもし普及していなければ、今の私と数時間前の私が同じであること、自分が維持できていることさえ、神の創造が絶え間なく現れているためだ、と説明されてもさして違和感を抱かないかもしれない。

近代は、個人が〈できる〉ことに大いに特化した時代だった。私的所有と自己制御にもとづく能力観・自立観、それが社会的上昇移動の手段や、国民国家の一員たる資格と深く関わっていた。

〈できる〉は個人の尊厳に結びつく。これは裏返せば、〈できない〉状態になることは、生存の危機とともに尊厳のはく奪を意味する。しかし本当にそうだろうか。

〈できる〉はしょせん、数多ある条件、機能、意味づけから成る複雑な歯車の、奇跡的一致にすぎない。身体機能に根ざした呼吸、睡眠、排泄だってそうだ。しばしば「あたりまえ」とされるこれらさえ、自分の意志でままならぬ人が現実には存在する。だから、一般に言われる〈あたりまえ〉を実現するためにはその内実を問い、しくみを知り、別のやり方で取り戻さなくてはならない局面だってある。

〈できる〉は〈成る〉の集積にすぎない。その〈成る〉は必ずしも個人の能力の及ぶところではなかったり、技術や道具や協働ゆえに果たせる事象だったりする。だから、私たちはもっと謙虚に〈成る〉を吟味してみる時が必要だ。一見万能と思われる技術がある条件では無力なことがある。反対に、無力と見なされた個人にとって、ある条件なら「可能な/可能だった」あれこれの選択肢が、無数ではないが数多あるケースもあるだろう。

私たちの生きているこの一瞬さえ何らかの奇跡とみなすひと時こそ、最も意識して作り出す必要があるのかもしれません。