いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

単一の所属にNO!

 祝福を。皆様にはどんな一日だったでしょうか。

  金曜なので土日休みの人はホッとしているかもしれません。いや家のことで仕事より大変な休日が待ってる、という方も居りましょう。私の両親もそうなのです。両方の親の介護に通っています。


 さて、ワークライフバランスの実現が称揚される昨今、いわきびにとっては何を今さら感があります。


 だってそうでしょう。人は生きていれば自ずと社会と関わらざるを得ない。労働者としての顔などほんの一面にすぎず、生活すれば消費者として、住民として、家庭なら妻や夫、母や父、娘や息子としての役割があります。

 戦後高度経済成長期には、男は企業戦士ー企業社会の基幹労働者ー、女は専業主婦、何歳から何歳までは学業、何歳からは労働、何歳からはリタイアといわば軌道が決まっていました。それが、異常なのです。


 そうした社会は常に、個人に単一の帰属を迫りました。社会的属性ー国籍、支持思想(政党、結社、組合、哲学みな)ーとそれに合致した行動は、個人が何であるか、誰であるかを規定し、社会保障分配の資格や量もそれで決定されたのです。今もそれは残っています。

 

 このシステムはきわめてジッド、固定的で融通がききません。それゆえ、無理やり分けられた属性の境界に位置する人、境界間を行き来せざるを得ない人、流動性をもつ人、複数の属性を持たざるを得ない人はアブノーマルと見なされ、時に注視や白眼視の対象ともなってきました。また、既存の分類枠組みで表象できない存在となった人々が、不当に不利益を被ったり、社会から認知されない存在とされたりしたのもこのシステムゆえでした。


 しかし、今はちがう。


 社会ーかつてマスメディアがそれを代表・代弁するかのようでありましたがーが名づける立場や役割、既有の属性など、個人が本来もつ数多あるアスペクトの一面にすぎません。

そしてご都合主義ながら社会の側も、個々人を単一の属性で区切っていては経済も何も回らないほど人手が足りなくなってきたことに最近気づき始めたのではないでしょうか。


 私たちの生きている現実は、その一瞬一瞬に実は別様の可能性を内包し、というより個々人がそれに気づきさえすれば、別のあり方を実現することは技術の発達によって昔より幅が拡がっていると思うのです。


 むろん、相対主義に陥る危険はあります。人が出来事の意味を見出したところで現実は何も変わらない、かもしれない。けれど、私は、小さく低くされがちな立場にある人が、別のあり方ややり方に気づき、自分を自ら肯定し、強いられた現実さえ自発的に承認するところにこそ、エンパワーメントの一歩があるように思えてならないのです。

 低くされた存在とは、「こうしたい」と思う意図を形成する段階からあらゆる局面で制限を課されています。そこから、自らの望む方向に手を伸ばすー、教育が手助けするべきは、本当はその辺りにあると私は考えております。