いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

いい、加減。のつくり方

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  祝福を。

 街中ではもう梅が咲き、早い木はもう八分咲きほど。皆様お住まいの土地ではいかがでしょうか?

 こんなに早く梅が香り、道端や畑に野菜や青草が生える、この彩りこそ地元四国の良さとしみじみ思います。


 地元はとても豊かで程よい街です。気候は穏やか、人ものんびり、考え方はやや保守的ですが、緩いほう。職住はわりあい近く、家賃は驚くほど安く、理想的なコンパクトシティかもしれません。


 食材は良質な野菜や海産物、何より柑橘が豊富に手に入ります。そしてもうふた月もすれば、青い麦畑の中を夕陽が沈んでゆく光景に出会えるでしょう。なぜか知られていませんが、実はハダカ麦の生産が盛んなのです。


しかし、 かくも恵まれた地だとわかっていながら、私はどうしても窮屈で息苦しさを感じるのです。気がつけば煮詰まります。なぜか?交通が不便だから?家族同居の煩わしさ?考えてみて、実はこの街の「良さ」そのものから来る感触ではないかと思いいたりました。


いい、加減。というキャッチフレーズがあります。実際その通りなのです。規模も水準も「程よさ」が奇跡的に凝集した地域でしょう。

 しかし、それは必ずしも寛容さや、懐の深さを意味しません。

この街で許容される 「良い加減」というのを湯加減、あるいは各人の持つオーラの温度に例えると、38℃が適温ならば、43℃や32℃は規格外として奇っ怪な目で見られる傾向があります。人や文化を受け容れるキャパシティは、残念ながら広いとは言えません。


 また、居心地の良い空間の構成要素として、「匿名性を保てること」も本来大きなポイントであるはずです。飲食店や居酒屋に一人で入って、下手にかまわれずふつうに放っといてもらえる。人間には、顔見知りのつながりよりも、誰でもないその他大勢として一人でいられる心地よさを求める時だってあります。知らない人と距離をとってお互い快適に過ごすこと、近づくよりもむしろ適度な距離を保つために言葉やフレンドリーな態度を尽くす。ところがこのための技術が、地元では未発達か、全く共有されていないように思うのです。


  もし地元に流れる「良い加減」の中身が、限られた温度への同調圧力か、インフォーマルな内輪・身内づきあいの延長でしかないのであれば、少なくとも社会的マイノリティに属する人々にとって住みよい場とは言えないでしょう。


 ここまで書いてみて、私も気づきました。それぞれのいい、加減。を実現するには技術が要ること。そのためには摩擦を含めた試行錯誤が許される場、そして今いる場所を相対化する回路を意識的に増やすことが必要です。私もできればその手伝いがしたい、と考えるのでした。