いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

身の振り

 冷え込んだ一日だった。電車の窓からは雪が散らつくのが見える。


 ズボンの下にレギンスとガードルを履き、前者の裾を靴下にインして安物のスニーカーにダウンコート、マスク。完全防備でいくらでも外を歩ける。もとより震災時に住んでた街に比べたらここの寒さなど取るに足らない。


 今日は職場のダメさ加減を再認識した。仕事のやり方がどうの、ではなく業務のセッティング段階で関係者ご揉める。全てはコスト削減という名目でなされた、インフラの絶対数不足のせい。いやいやそれはもう一年半前からそうだった。それでもどうかこうか維持できたのは、急な退職者が出たり、部署を縮小したりして、不足したインフラの規模に合わせてたまたま人員も減ったからだった。そして作業行程の組合せが本当に偶然、各担当間で微妙に重ならないように回せてきたからだ。


 が、体制をいじり、人員を異動させ、担当を変えているうちに歯車が狂ってきて、もともとあった矛盾が露わになったのだ。そのひずみを受けたのが私だったり他の人だったりしたわけ。


 地方の非正規雇用の大半と同様、うちも投売り在庫一掃セールみたいな破格の賃金である。そんな収入にしがみつく義理はない。が、こんな当たり前のことさえ年齢や経験、常識何より「食えなくなること」に怯えて手放せず数年を経た。


 そして気づいたのだ。惨めさに浸っている方が、囲いを破り出ることよりも楽だったことに。


 これまで何回か地元で転職活動や部屋探しをしたけれど、ことごとくうまくいかなかった。微妙に条件が合わず、周囲の反対にあい、また自分が納得できなかった。なぜなのか、と振り返ってみると、それらはみな自分や家族、職場、地域のあり方が決して変わらない前提で未来を構想したからだと思う。


 地元はとても煮詰まる。こんなに豊かな、こんなに良きものに満ち溢れた温暖な土地の内部でやる気晴らしも、家畜が放牧地の端から端まで行って違う景色を見てまた寝小屋に帰っていくのとまるで同じに思えた。「新しいやりたいこと」のためにどれだけインプットを重ねても、放牧地内の草を食むことをやめない限り変化はないのかもしれない。


 上記のことは漠然と気づいてはいたけれど、恐ろしいもので新しい夢のために貯めたお金と、温かな家、勝手がわかる地元という強み(?)に覆い隠されて見えなくなっていた。でも昨年、その貯金もだいぶ手放した。そうして浮き彫りになった自分の姿は、せっかく災害を生き延びた身に相応しいものではない、と確信できた。


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 上は多分ニジノタマという多肉植物

植物の草姿が見せる奔放さに心打たれるのは、それが人間の関心とは無関係に成った形だからだろう。

 自然の模倣ー、無限なる可能世界に見たてられた自然の中から、偶然あり得た事実として何かを現実化する。人間の自発的創作や何かを作り出すことは、そんな営為にすぎないが、それでも技術の進展で十年前なら不可能だった様々な行為が実現できるようになった。思考や言葉の上でしか可能でなかったものたちが、どんどん現実化していくかもしれない。


お金がなく、地方に住み、若くない歳で、しかし新しい学びに着手したい人に。独学の助けとなる情報やツール、そのありかと使い方を共有できたら良いなあと考えております。