いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

非正統なものについて

 祝福を。こちらは冷たい雨が降ったりやんだりの空模様です。

  転職活動をやってみて、というより三十路半ばを迎えて痛感すること。

それは「ちゃんとした○○」という圧力のキツさ。

「ちゃんとした仕事」

「ちゃんとした収入」

「ちゃんとした結婚」

「ちゃんとした地位」

「ちゃんとした家庭」etc…

 

 もうね、キリがありません。大抵は自分の親世代〜それより上の世代が振りかざす価値観なのだけど、自分の同世代もこれに引きずられてこの価値観を内面化している。とてももったいなく、心身を貧困化する発想で酷いことです。

 この「ちゃんとした」や「きちんとした」は「安定した」と同時に多くは「正統な」という意味を含んでいます。したがって仕事が非正規雇用というだけで正統でない労働者、届け出による法律婚をしない人たちは正統でないカップル、現在やっと認知されてきたシェアハウスなど世間一般の多数派から少し外れた住まい方をするのは正統でない人たちとみなされてきたのです。

 しかし、です。

 周知の通り非正規雇用は全労働者の四割を占め、非正規なしに回っている現場があったら手を挙げてみなさいという状況です。 とくに労働の場合は同一価値労働同一賃金など言われる前から正規も非正規も同じ仕事をしてたりします。非正規労働者にも地位や条件にグラデーションがあって、おそらく一番損なのは直雇用・フルタイムの労働者でしょう。

 たとえば中高の教員だと非常勤は授業のみ担当で一コマいくらの賃金で週何回という関わり方なのに対し、常勤講師は基本フルタイムで授業をやって担任と部活を任されます。正規教員とほぼ同じ仕事の内容です。でも非正規なので、専任教員と同じ待遇ではない。人件費抑制でしかありません。

そういう中で、正統/非正統の区別にはもはや意味がありません。同じ仕事なのに給与と福利厚生が雲泥の差。おかしいと思っても日本型雇用慣行下の労働組合は正社員中心でした。それがいまや非正規も絶対数が増えて多様化し、酷い待遇もありながら直雇用以外の派遣労働も一般化している。雇用の流動化は進みながら非正規用の市場やルールも整いつつある。反貧困の実践も、2008~9年辺りからだいぶ顕在化してきました。

  家庭も同様で、法律婚で同居の夫婦を中心に子どもがいるという形態も、正社員男性が稼ぎ頭で女性が家事育児家計補助という役割(社員ー主婦システム)も、戦後日本の高度経済成長期、もっと言えば近代社会の限定的なもの。この経済成長、要は戦前の資本蓄積と戦後の冷戦と日米同盟による囲いのもと繁栄した企業中心社会の産物です。そんな特殊条件下の産物をさも人間の規範として、まるで定言命法みたいに強制するのは歴史全体を見渡すと、噴飯ものですね。機能不全家庭や虐待は論外として、正統でない家庭云々は戸籍制度や夫婦同姓原則を下支えして差別の正当化につながります。

  とはいえ、もうここまでは皆さん今の時代に大概お目にかかった議論でしょう。今日私が書いておきたいのは、非正規の学生のことです。 

  ここでは、大学の研究生、聴講生、科目等履修生を扱います。 実は私、これまでの人生で2回、非正規学生を経験しています。以下、大学ごとに資格が規定されますが、その概略。

 

研究生:学部または大学院の指導が受けられる。入学資格は大学・短大・それらと同等の学校を卒業した者。特定の教員に「つく」「師事する」かたちとなり、許可されれば授業への参加が認められるが、単位取得は不可。授業料は大学ごとに異なるが国立大だと普通の学生の約半分。

 

科目等履修生:当該大学で開講される科目を選んで履修でき、評価のうえ単位取得できる。履修前、受けたい授業ごとに担当教員の許可をもらう必要がある。授業料は1単位あたりいくらで複数科目を受講するならその合計額で徴収。

 

聴講生:学部や大学院で開講されている授業科目を聴講できる。単位は取得不可。 

 

 研究生はたいてい、学部卒後に大学院進学準備のために師事したい教員のもとで学ぶ目的でなる。が、その教員や研究室の方針によって処遇はピンキリで、面倒見のよくない教員や院生につくと得るものは少ない。図書館でも研究室でも制度上使える権利が少ないのに加えて「正統でない」とカウントされることはかなり惨めだった。ちょうどその当時、世間でははじめて「ニート」なる言葉が登場し、就学も就業もしていない若者を問題視する風潮が出始めた。それは、このまま行先が決まらなければ自分もそうみなされる=社会からバッシングされる、ということを意味していた。

 あれから十数年を経て、若者の雇用難や貧困が少しはまともに取り上げられるようになったものの、これまでのニートやフリーターと名づけられた立場をめぐる語りは凄まじく否定的だった。その存在を認知されるまで時間がかかり、話題にのぼるときは必ず非難のまなざしと口調が伴った。

 なぜか?それはこのような存在が、長い間標準とされてきたライフコースや価値観を脅かすからだろう。いわゆる「正統でない立場」にしておけば、どれほど数が増えても劣等処遇を正当化できる。この背景には彼らが「ちゃんとした所属」を持っていないことに対する蔑みがある。これは非正規の中でも派遣社員に対する見方と結びついていて、スキルや実績よりも所属先重視の考えがなせるわざだろう。

 

 だがITC革命も3.11もへた2017年には、流動化した個人、という形態がリアルだろう。仕事、住まい、家族はすでに多様化しつつある。それを断片化、分断化と呼ぶこともできるけれど、ここに至って意味を失うのはこれまでの正統ー非正統の区分である。

 たとえば就業と失業、プロとアマ、定住と移動生活、家族とそうでない者(誰から誰までを家族とみなすか)の境界はボーダーレス化している。国境も、やがては形骸化する。今は難民問題、ビザ取得の苦労が深刻であるにせよ。物流、金融、サービスのグローバル化はこの十五年で一気に拡がったし、人も同じように移動するか、繋がれる。

 人口減少社会は、もともと多様である個人のphaseを活用せざるをえない。「この年齢にはこの社会的身分でここに所属してこれだけを専業でやりなさい」はますます現実離れしていく。個人のphaseを分けることが無意味ならば、横断的な権利保障をつくっていくのが現実的だろう。人権とは、ほんらいそうした普遍的な発想のはずである。

 そしてこれらは学びの世界もそうだ。発信も受信もネットのおかげでかなり自由になった。フォーマルな教育の機関には特有の存在意義があるとして、変な区分はなるべく外し、フリーアクセス可なものはオープンにしていくこと。それが、その領野の裾野を広げ、層の厚みを増す方法だろう。

 今まで非正統とされ、正統な何かへの依存・従属を強いられ、一人前にカウントされてこなかった立場の人たちが十全に学び、交信し、世界に埋もれるのでなく世界と共に在れるように!これについて、おいおい考え書きたいと思います。