いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

詰んだ年を前に

ハロワの職員はなぜか優しかった。

同情もたぶん入っているのだろう。

職業訓練を前に、一度失業認定を受ける必要があり、行ってきた。

テクスト代を引き出し、散髪に行き、夏物衣料を買う。それだけでけっこうお金はとんでしまった。だが来週までに雇用保険の一部が振り込まれるらしく、何だかよくわからないが手元所持金がゼロになることは免れそうだ。

状況を整理する。

秋からの転職活動は実を結ばず、資金尽きて地元実家に残留。
3月末で前職を辞め、雇用保険は給付制限なしに受給できるが、職業訓練受講による給付日数の延長アリのため、アルバイトをしても減額分を最後の月に繰り越しが不可に。働くだけ損となり、働けない数ヶ月を過ごすことに。なぜそれが困るかというと、前職の給与が低すぎてその6〜8割にあたる失業給付はとても十分とは言えないのだが、これも「自分で選んだこと」と言う人は言うのだろう。

そもそも今回のケースは離職票が届くまで給付制限がつく・つかないも不明だった。なまじ雇用保険が受給できるせいで求職者支援訓練は申込優先でなく、受講できても月10万の給付は受けられない。

職業訓練も4月になってみれば自分の受けたい部分が該当コースから抜けていた。それでも自分のスキルを考えたらこれはこれで役に立つのだと思っていたが、AIが本格導入となれば5年後にはお払い箱の可能性が高い。

入る金は少ない、働けない、学んだスキルが近未来に不要となるー。

秋にすぐ就職といっても中途半端な時期では求人も少ないだろう。即日就業したければ派遣にしよう。なんとか前職より高い賃金が欲しいのだが、この年齢では自分より若い者か経験値の高い者を採用するだろう。就職するにしてもこれまた資金がないので住みたくもない地元である。

例の奨学金はまとまった繰上げ返還がしにくいことを考慮すると完済まで数年かかることに。

そうして40歳を前に自由の身となった後、待ってるのは老いと、親の介護懸念だろう。海外移住の扉は完全に閉ざされているかもしれない。

要するに、始まってまだ半年経たないうちに今年は負けが確定している。

こういう詰み方があるのか、と思う。なるほど田舎でジリ貧に陥るとはこうなることなのか。

それでも前職を辞めて後悔した日は一度もない。コスト感覚ゼロで、アナログで、破格の時給で働いても数年後には契約更新不可だからな。そんな仕事で手首を壊したら元も子もありはしない。

唯一肯定できるのは、誰が何を言おうと前職を辞めたこと。

ただ、田舎は何をするにも選択肢が少なく、動くにもコスパが悪いので、その辺の注意点を後続のためにいずれ記そうと思う。

書いてみて少しは気持ちが落ち着いた。いわきびは、洞窟を抜けたい。光を見たい。そうしていずれ森の開けた明るみに立てる日を信じている。あと数ヶ月やってみて、ダメならまた考えよう。

「こうしたい」という意思や意図と、その実現までの距離は、技術の進歩でどんどん縮まっているはずだ。しかし、人間の能力はあくまでも有限で、これから起こりうることを含めすべてを汲み尽くすことはない。だから、いくら思い描いても予測のつかない何かは起こりうる。それが良いことか悪いことかは不明だが、もし「可能性」に希望と呼びうる何かぎあるとすれば、たぶんそれは予測不可能な何かを指すのでしょう。

AIおよび機械化と事務作業


 人工知能(AI)の導入は事務系労働者を一掃するという。事務職のほとんどをAIは代替できるそうだ。ネットを叩けば「人工知能の進化・導入によってなくなる仕事」関連の記事は山と出てくる。事務職はその代表格らしい。Excel表計算もグラフ作成もAIなら容易く処理できるため、人間が覚える必要はなくなるという。データ入力も人の手がやる必要はない。AIでなくとも、労働力不足で生産性を上げるために機械化できる作業はどんどん機械に置き換えたほうが合理的とはいえる。

 解ってはいたのだが。想像はつくのだが。

 そうすると訓練で数か月学んでも数年後にはお払い箱というわけか?

 しかも前職収入がアレなせいで雇用保険の額が微妙であり、その上訓練受講による給付日数の延長が生じるため働いて減額された基本手当の分は最後の月に繰り越すこともできない。薄給な職場に居るとろくなことがない。前職の給与が低すぎることがとにかくネガティブな影響として何にもついてまわる。

 ただ「AI導入で消える仕事リスト」を見ると、前職は会社ごと吹き飛ぶ予定なので何にせよしがみつく必要はなかったといえる。


 経歴や取った資格や免許が使えない、という事態は前にも経験している。

 教員免許は更新制になった。別の資格は専攻要件を満たせないことが多い。

 前者は上位免許も取得したのに、その後教育とは無関係な仕事に就いたため、生かしたことはない。教育労働がどれほどブラックかも弁えている。が、なまじ免許を持っているせいで経歴の整合性が問われるというか、就活に不利なことが多くてもう手放したほうがよいのではと思う。


 いわゆる大卒文系ホワイトカラーは不要になる、というのが時代を読めている人たちの未来予想図らしい。英語+プログラミング、加えて営業力と発信力!モビリティ!...転職につまづき、住む場所も変えられなかった自分からみると正論はもうあまり見たくない。

 それにしても事務職を軽く見る人たちは、業務の中身をどう考えているのだろう。事務作業ができることと、事務職であることはまったく別である。今どきどこの業界でも何かしらPCを使ったり文書を作成したりしているんだから作業のやり方さえ覚えれば誰でも代替がきく-、そんなところか。

 たしかに代替は可能だ。事務職のほとんどは派遣労働者に置き換わりつつある。が、それはスキルがあって事務一般を知っている人材に限る。当然だろと思うかもしれないが、世の中にはデスクワークがどうしても不向きな人がいる。

 デスクワークができて、事務作業じたいがこなせる人でも、事務に専念するポジションで相応のパフォーマンスができるかはまた別となる。大量の書類、データ、情報、それらを管理し統治する視点が必要となる。

 そもそも膨大なモノや情報の分類・整理・管理には固有の技術が必要であり、そのため専門職となっている仕事もある。図書館司書は大量の本や資料を管理し、秘書はスケジュールを管理する。で、事務職は文書やデータ管理の延長上にあると思うのだが。


 さらに、事務職は肉体労働ができない人、対人業務の苦手な人、軽度障害をもつ人の受け皿でもある。技術革新で仕事を追われる人々はいつの時代にもいて、私もその一人になるのかもしれないが、一般論に則った人たちの言うAI導入は、ヒトの生き方や役割の幅をかえって狭めるのでは?

 AIや技術化についてはもっと書きたいことがたくさんある。ただ今は、現時点で自分が完全に時代から取り残されることがほぼ決まったようなものなので、残りの人生の埋め方を工夫しなければと思っています。ほとんど自棄に近いが。

ドライブの記憶

土曜の夕方は特別な時間だった。

四国へ帰ってくる前は、その時間必ず原付を繰り出して郊外のショッピングモールへ出かけていた。アメリカ東北部を模して丘陵地を開発した、山野に連なるそこのアウトレットが程よい気晴らしとなった。

住んでいたアパートから片道トータル50分。秋冬には手足は凍えかけるが、今くらいの時期なら新緑の中をさっそうと突き抜ける。
桜のようやく散った山道を、眼下にちらほら渓流をのぞみながら疾走する。来月には早苗の植わった田んぼが見られるだろうか。広い道には両脇にメタセコイアが芽を吹き、雲とニセアカシアの花の白さが印象深い。

初夏にはだだちゃ豆(枝豆)が濃い葉を繁らせる。畔に咲くサルビアやダリアの赤さが真夏に若葉の色をたたえる緑の中に映える。くすんだ朱色をした民家の屋根も好対照をなす。

北国の秋はあっという間に過ぎる。その分週ごとの風景の変化は色濃く見応えがある。先週には稲穂が広がっていた田んぼは刈取りが済んでハセが並び、山中のモミジバフウは真紅となる。トチノキの実は9月には道路に落ち、人気のない道路をリスが青いクルミを加えて横切る。

ススキの穂や稲穂にかかる霧の光景。湿度の高い山中の空気は都会の人いきれとは全く異なる秩序のある世界を現前させてやまない。

本当はいけないのだろうが、冬も凍結した路面を原付で走って出かけていた。今思えばよくあんな運転ができたと思う。手袋をしても指先の感覚がなくなるスレスレまで走ってから頂く紙コップのコーヒーや暖房のそばの感触は格別だった。

そして何より夕景だ。丘陵地帯から見渡す街並みは白い建物がマッチ箱のようで、葉の落ちたケヤキや他の広葉樹の枝からのぞくピンク色の空と合わせて絵のようだった。

散歩は良い。自分と風景との一体化とは言わないまでも、自分が身を置く環境への信頼をとことん味わい取り戻すことができる。

いま、かつて住んでいた街のケヤキ並木を思い出す。これから6月にかけて、夜は霧に包まれる。新緑に漂う白いもやの中を一心に突き進んでいた頃の自分を思い出して、あの時ほどの緊張と焦燥をこちらで味わうことがないのに安堵とわずかな失意を感じる。

働かなくてよい日々へ

お金のことについて、昨日また新たな事実が判明した。

これから数ヶ月間、アルバイトは実質上できない。

通常、雇用保険受給中の人がアルバイトしたときは、稼いだ分の金額が当月の受給額から減額されて、その分は一番最後の月に繰り越しで給付される。が、雇用保険を受給しながら職業訓練に通う人が、もし訓練受講によって本来の給付日数が延長となったばあい、バイトで稼いだ金額は受給額から引かれるだけで繰り越しは不可となる。訓練終了とともに雇用保険の給付も終了。週20時間未満なら申告しつつバイト可能だが、もちろんそれは給付額から減額される。つまり期間中ひと月に入ってくる金額は、働こうがどうしようが一定にしかならない。働くだけ損になる。

これが、訓練終了後も給付日数が残っていれば繰り越し可能らしい。むしろ三ヶ月の待機期間が付いていたら、今回受ける訓練終了後も本来の給付日数は残っていた計算にはなるが…。もう言うまい。
今回の私のばあいは離職票が届くまで給付制限が入るかどうかも不明だったし、訓練の中身も新年度が始まるまで詳細を知りようがなかったし。

なんでこのことが問題かというと、何度も書くが、元の給料が低すぎるため失業給付の金額がかなり微妙なため。この金額で数ヶ月!?年金は免除申請済として国保は払う、奨学金も返済する、いくら実家住まいでも生きていればお金はかかる。しかし、バイトしたところで月に入る額は基本手当のひと月分を決して超えることはない。訓練終了後すぐ仕事が決まる可能性は低い。中途半端な時期だからだ。むろん終了ひと月前あたりから就活は始めるし、決まれば退校もできる。だが。

あれこれ調べて動いたことは全部望まない方向に行き、この状況はもしや貧困のドツボに陥った、と表現するのではないか??

さらに失意を感じるのは、壁の貼紙を見ると自分にドンピシャな訓練コースが7月から開講されること。でもこれは求職者支援訓練だし、3月にわかってたとしても夏まで失業者で居るつもりなどなかったから今は何も言えない。

もう、既存の制度や無料で受けられるサービスというものに一切期待するなということか。

たぶん授業が始まればそんなこと考える余裕もなくなるだろう。スタートしてみなければわからない。ただ一つ言えるのは、「働かなくてよい日々」がこれから始まるということです。

一つ以上の世界

祝福を。

今日は私にとって大切な日だ。

きょう5月17日から19日まで、
イタリアはボローニャ
(Ermeneutica dell'Illuminismo)「啓蒙の解釈学」と題したハンス・ブルーメンベルク研究のシンポジウムが開催される。

http://www.dfc.unibo.it/it/eventi/ermeneutica-dellilluminismo.-hans-blumenberg-e-la-costituzione-della-razionalita-moderna

スイスのジュネーブ大学が中心となったフランスでの共同研究の成果らしい。

ブルーメンベルクの過去記事はこちら
http://iwakibio.hatenablog.com/entry/2017/04/27/194607

「マイナーな哲学者」として紹介したが、海外ではこの十年近くでかなりの研究蓄積があるみたいだ。

シンポの発言はイタリア語とフランス語で、後者は残念な(本来はあるまじき)ことに私は全く読めない。

この催しがあることを、私は先週SNSで知った。その詳細に、今の私は自力で接近することはできない。そこへ行くことも能わない。

それでも、自分が注目している学者にこれだけ多くの人が関心を寄せ、言及し、研究成果を発表するということを、私はとても心強く感じる。集まりが開かれている事実そのものが、私をなぜか勇気づける。

むろん、同じアリーナで闘うのは綺麗事でないシビアな競争と努力が必要だ。だから現在の私はたとえば、草野球を楽しむ人がメジャーリーグの放映に心踊らせるようなものかもしれない。どんな分野でも国際枠に上がるにはしかるべき訓練を積み、しかるべき機関に所属し、ポジションを得て、初めて同じ土俵に立つ資格があるのだろうことは、いくら私でも解る。

私のタイムラインには、海外移住を目指す人、試みた人、何とか続いている人、止むを得ず帰国した人などがひしめいている。動機も行きたい国も、取れそうなビザも人さまざま。とはいえ成功した人・勧める人クラスタが強調する根拠はだいたい似通っている。

今はインターネットの発達で世界中の情報にアクセスでき、また繋がれる。二十年前なら不可能だった稼ぎ方が可能になった。国をまたいでノマドワークができる。会社に所属せずフリーランスも可能。もちろん努力と覚悟と運は必要だけど、その気になれば扉は開かれているー。

一方行き詰まった人からの声もあって、こちらは日本社会への絶望を契機に舵を切っただけに戻るべき祖国の未来のなさも書かれていてあまり見てると八方塞がりな気分になる。
発言の内容は主にビザ、語学、スキルなどの条件をクリアする難しさ。中途半端な大卒文系ホワイトカラー労働者の仕事はこれから急激に減り、しかも世界的傾向となる。人工知能の進化で職を奪われる人も出るだろう。日本は高齢社会と貧困化が進み、生産人口不足、空家問題が激化するのに戦争なんてどうすんのコレ?という論調。

どちらの言うことも一面の真理だろう。転職(というか退社)を決めてからの私はこの両極を揺れ動いてきたと言ってよい。身を置く環境を変えなければ好転しない、親世代の言うことはノイズでしかないから別居して保証人なしで入れるURで安い部屋借りるかシェアハウス、正社員や直雇用はコスパが悪いから派遣が良い(これは一理ある)、いや社畜に未来はないから個人で稼ぐかフリーランスを目指そう、事務職なんかいずれ機械化されるから別の仕事をーIT系でプログラミングやWebデザインをー、等々。

そのどれもうまくいかなかったが。


ネットの普及によるメリットは、その場に居ながらにして全く別の遠い世界の出来事や人にアクセスできることだろう。ビザ、語学力、卓越したスキル、移動するお金がなくても端末を通して情報にアクセスすることはできる。SNSアカウントをとれば、素人でも専門クラスタの発言をのぞくことができる。

これこそは私の親世代にはできなかったこと。

昨夜は母の職場に来たとても好感の持てる新人さんのことでご機嫌な彼女の話につきあう。父は介護で病院泊。朝食の片づけのあと近所の人が町内会の用で訪ねてきたの対応。洗濯物を干し、トイレを掃除する。もうすぐ始まる職業訓練の準備をあれこれ。

そして振り込まれた雇用保険を確認する。今日が大事な日であるもう一つの理由がこれで、金額はアレだが、ないよりましだ。

これが私の日常である。地元に居ながらにして、多くの世界が自分と共に在り、身を浸すことができる。そう思うことで、かろうじて全てを放棄する一線は免れている毎日である。

実りのメタファー

祝福を。

叔父から畑でとれた空豆を大量にもらったので、すべてサヤから出した。

f:id:iwakibio:20170515204805j:plain

けっこうな量である。サヤごと冷凍保存するのが最適らしいが、冷凍庫スペースに限りもあるので全部剥くことにした。で、2時間ほどかかって作業を終え、ボウルに持っていま夕飯。

豆類は食べるのに手間がかかる。生では決して食べられないものだから、水に漬けて置き毒抜きせねばならない。その前にサヤから出すのが大変だ。一個85円とかで売られている餡饅頭は、到底その手間に見合った値段ではない。

青く膨らんだサヤを開き、袋に繋がった豆をボウルに開けていく。さっきまでサヤとしっかり繋がれていた豆は、それぞれ異なる形と艶をもち、外の世界へ放たれる。サヤそして親株と一体だったものが分化して、別の個体となって現れる。

実りとは、孤独のメタファー。

豆も芋も地上に成る実も、最初はある個体と一体だった。それが、時が来てもうその株に留まっていられない状態となり、別の個体となって生きていく。果実はやがて枝の繋ぎ目を離れる。一体化し、調和していた世界から切離され、世界との絆や信頼を自らの命によって再び結び直す過程が、放たれた実りの使命である。孤絶していては世界との対話はできない。世界に参加(語弊のある表現だが)することも格闘することも。傷つくことを含めた生きるための奮闘が、たとえ死や敗北につながっても、相互作用がそこには在る。自らの意志で生を享けたわけでなく、個体にとってはいわば意図せず無理やり世に出された命はしかし、そこでそれ自身にしか感受できない光景を経験する。

人間が世界と関わるための手段は、インターネットの発達によってグッと増えた。情報や思想の受発信はかなり容易となった。皆が意味ある生を求め、世界への意味づけを求め、あたかも世界を手中に収めることさえ実現間近に思うクラスタさえ居る。イメージも表象も氾濫している。それが人を救うこともある。そうした世界への働きかけは自発的、能動的になされているように見えるけれども、人を発信に駆り立てる契機や、世界と向き合わざるを得ない姿勢そのものが、人間存在の決定的な受動性を顕現しているように私には見える。そうせずにはいられないほど、依然として生は恐怖と徒労に満ちており、イメージや言語や様々なアート、技術によって人は世界への意味付与を試みる。

生き物の脆弱さは次のような営みだ。蔓植物の芽が虚空をさまよう。その先が土に触れれば根を生やし、壁や木に触れれば茎を伸ばし、光と雨を求めて葉を拡げる過程はひたすら受動的である。そうして条件がそろえば実を結ぶ。

f:id:iwakibio:20170515215848j:plain

その実りがまた、上記の過程を繰り返す。孤独のうちに偶然に身を任せる軌道はそのまま無二の草姿として、固有のフォルムを具現する。

そのようなプロセスを妨げるものは数多あるけれども、肉塊にすぎないはずの生き物は明日も手を伸ばして進む。

ひとりごはんは立食いで

祝福を。

日に日にやる気というものを失いつつあるようで怖い。

煮詰まる。


親は今介護で必死で、付き添い用の弁当というのを数食分自作し、朝早く車で出かける。その必死さというか常人の倍タスクをこなす雰囲気を見ていると何も言えない。

揺れ動く自分。

訓練は決まったが、その受講後に待っている未来は地元で社畜労働。奨学金を返済し終えたら何が残るか。歳をとり、田舎で暮らす自分。
海外移住も子育てもフリーランスも新しい住まい方も経験せずにただ歳をとるなら、生き残ったことに意味はあるのかなど良くないことを考える。

なまじ難解な本を読むと停滞したときにしんどい。自分の気晴らしが下手なのは判っている。でも、読書や勉強がいくら有益でも、いや有益であればなおさら、その先、ここ以外の場所に出られないことがふがいなく悔しくてならない。

最近気づいたこと。

私には、家で一人の食事に対して、なるべく静かにスムーズにシンプルに無駄なく終えたいという欲求がある。家族とはできるだけ顔を合わせたくない。同席するとほぼ決まってそこにはテレビがつき、わずかなネットリテラシーのある人間なら瞬時に嘘と見破れる情報を拙い粉飾で放映しているのに居合わせるからだ。

私がいつも座る席はダイニングの奥側で、流しのある台所で作ったり盛り付けたりした料理をいちいちそこまで持ってゆくのが面倒だ。加えてテーブルを拭き、あるいは口を拭いたティッシュを捨てるためにちょいちょい席を立つ。その手間が無駄なので、一人で食事をつくり頂く時は、そのまま台所で立って食べている。

行儀が悪い、と言われるのは解っている。だがこのやり方は、思いのほか自分の手元に集中できる。視界に映る向かいの庭も隣のベランダ越しに見える空も、すべて自分の領界だ。


いつだったか、郊外へ自転車で散歩に出た折に、広い道でトラックが一時停止するのを見かけた。運転手は顔を上げて菓子パンをかじっている。運転マナーからいえば良くないことなのだが、この人のフロントガラス越しに見える風景はきっと自分だけの快適さがあるにちがいない。周りは麦畑か野原のだだっ広い中で、店に入る時間も省いて働かざるを得ない労働条件はもちろん問題だ。しかしこの人がこの風景の中で経験しているのは、誰にも邪魔されない自分の世界だろう。

私が台所から求めるのもたぶんこれと同じ経験だろう。

かつて住んでいた街には立食いそばの店があった。かき入れ時の昼休みに周囲には目もくれず食べた。その向かいにはビッグイシューを売る販売者さんが立っていた。雪の降る日も。
この光景は地元にはない。ないが、あの時と同じような行き詰まり方をしている今、同じような自分の世界をどうにかしてつくり出そうとあがいていこうと思います。