いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

一つ以上の世界

祝福を。

今日は私にとって大切な日だ。

きょう5月17日から19日まで、
イタリアはボローニャ
(Ermeneutica dell'Illuminismo)「啓蒙の解釈学」と題したハンス・ブルーメンベルク研究のシンポジウムが開催される。

http://www.dfc.unibo.it/it/eventi/ermeneutica-dellilluminismo.-hans-blumenberg-e-la-costituzione-della-razionalita-moderna

スイスのジュネーブ大学が中心となったフランスでの共同研究の成果らしい。

ブルーメンベルクの過去記事はこちら
http://iwakibio.hatenablog.com/entry/2017/04/27/194607

「マイナーな哲学者」として紹介したが、海外ではこの十年近くでかなりの研究蓄積があるみたいだ。

シンポの発言はイタリア語とフランス語で、後者は残念な(本来はあるまじき)ことに私は全く読めない。

この催しがあることを、私は先週SNSで知った。その詳細に、今の私は自力で接近することはできない。そこへ行くことも能わない。

それでも、自分が注目している学者にこれだけ多くの人が関心を寄せ、言及し、研究成果を発表するということを、私はとても心強く感じる。集まりが開かれている事実そのものが、私をなぜか勇気づける。

むろん、同じアリーナで闘うのは綺麗事でないシビアな競争と努力が必要だ。だから現在の私はたとえば、草野球を楽しむ人がメジャーリーグの放映に心踊らせるようなものかもしれない。どんな分野でも国際枠に上がるにはしかるべき訓練を積み、しかるべき機関に所属し、ポジションを得て、初めて同じ土俵に立つ資格があるのだろうことは、いくら私でも解る。

私のタイムラインには、海外移住を目指す人、試みた人、何とか続いている人、止むを得ず帰国した人などがひしめいている。動機も行きたい国も、取れそうなビザも人さまざま。とはいえ成功した人・勧める人クラスタが強調する根拠はだいたい似通っている。

今はインターネットの発達で世界中の情報にアクセスでき、また繋がれる。二十年前なら不可能だった稼ぎ方が可能になった。国をまたいでノマドワークができる。会社に所属せずフリーランスも可能。もちろん努力と覚悟と運は必要だけど、その気になれば扉は開かれているー。

一方行き詰まった人からの声もあって、こちらは日本社会への絶望を契機に舵を切っただけに戻るべき祖国の未来のなさも書かれていてあまり見てると八方塞がりな気分になる。
発言の内容は主にビザ、語学、スキルなどの条件をクリアする難しさ。中途半端な大卒文系ホワイトカラー労働者の仕事はこれから急激に減り、しかも世界的傾向となる。人工知能の進化で職を奪われる人も出るだろう。日本は高齢社会と貧困化が進み、生産人口不足、空家問題が激化するのに戦争なんてどうすんのコレ?という論調。

どちらの言うことも一面の真理だろう。転職(というか退社)を決めてからの私はこの両極を揺れ動いてきたと言ってよい。身を置く環境を変えなければ好転しない、親世代の言うことはノイズでしかないから別居して保証人なしで入れるURで安い部屋借りるかシェアハウス、正社員や直雇用はコスパが悪いから派遣が良い(これは一理ある)、いや社畜に未来はないから個人で稼ぐかフリーランスを目指そう、事務職なんかいずれ機械化されるから別の仕事をーIT系でプログラミングやWebデザインをー、等々。

そのどれもうまくいかなかったが。


ネットの普及によるメリットは、その場に居ながらにして全く別の遠い世界の出来事や人にアクセスできることだろう。ビザ、語学力、卓越したスキル、移動するお金がなくても端末を通して情報にアクセスすることはできる。SNSアカウントをとれば、素人でも専門クラスタの発言をのぞくことができる。

これこそは私の親世代にはできなかったこと。

昨夜は母の職場に来たとても好感の持てる新人さんのことでご機嫌な彼女の話につきあう。父は介護で病院泊。朝食の片づけのあと近所の人が町内会の用で訪ねてきたの対応。洗濯物を干し、トイレを掃除する。もうすぐ始まる職業訓練の準備をあれこれ。

そして振り込まれた雇用保険を確認する。今日が大事な日であるもう一つの理由がこれで、金額はアレだが、ないよりましだ。

これが私の日常である。地元に居ながらにして、多くの世界が自分と共に在り、身を浸すことができる。そう思うことで、かろうじて全てを放棄する一線は免れている毎日である。

実りのメタファー

祝福を。

叔父から畑でとれた空豆を大量にもらったので、すべてサヤから出した。

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けっこうな量である。サヤごと冷凍保存するのが最適らしいが、冷凍庫スペースに限りもあるので全部剥くことにした。で、2時間ほどかかって作業を終え、ボウルに持っていま夕飯。

豆類は食べるのに手間がかかる。生では決して食べられないものだから、水に漬けて置き毒抜きせねばならない。その前にサヤから出すのが大変だ。一個85円とかで売られている餡饅頭は、到底その手間に見合った値段ではない。

青く膨らんだサヤを開き、袋に繋がった豆をボウルに開けていく。さっきまでサヤとしっかり繋がれていた豆は、それぞれ異なる形と艶をもち、外の世界へ放たれる。サヤそして親株と一体だったものが分化して、別の個体となって現れる。

実りとは、孤独のメタファー。

豆も芋も地上に成る実も、最初はある個体と一体だった。それが、時が来てもうその株に留まっていられない状態となり、別の個体となって生きていく。果実はやがて枝の繋ぎ目を離れる。一体化し、調和していた世界から切離され、世界との絆や信頼を自らの命によって再び結び直す過程が、放たれた実りの使命である。孤絶していては世界との対話はできない。世界に参加(語弊のある表現だが)することも格闘することも。傷つくことを含めた生きるための奮闘が、たとえ死や敗北につながっても、相互作用がそこには在る。自らの意志で生を享けたわけでなく、個体にとってはいわば意図せず無理やり世に出された命はしかし、そこでそれ自身にしか感受できない光景を経験する。

人間が世界と関わるための手段は、インターネットの発達によってグッと増えた。情報や思想の受発信はかなり容易となった。皆が意味ある生を求め、世界への意味づけを求め、あたかも世界を手中に収めることさえ実現間近に思うクラスタさえ居る。イメージも表象も氾濫している。それが人を救うこともある。そうした世界への働きかけは自発的、能動的になされているように見えるけれども、人を発信に駆り立てる契機や、世界と向き合わざるを得ない姿勢そのものが、人間存在の決定的な受動性を顕現しているように私には見える。そうせずにはいられないほど、依然として生は恐怖と徒労に満ちており、イメージや言語や様々なアート、技術によって人は世界への意味付与を試みる。

生き物の脆弱さは次のような営みだ。蔓植物の芽が虚空をさまよう。その先が土に触れれば根を生やし、壁や木に触れれば茎を伸ばし、光と雨を求めて葉を拡げる過程はひたすら受動的である。そうして条件がそろえば実を結ぶ。

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その実りがまた、上記の過程を繰り返す。孤独のうちに偶然に身を任せる軌道はそのまま無二の草姿として、固有のフォルムを具現する。

そのようなプロセスを妨げるものは数多あるけれども、肉塊にすぎないはずの生き物は明日も手を伸ばして進む。

ひとりごはんは立食いで

祝福を。

日に日にやる気というものを失いつつあるようで怖い。

煮詰まる。


親は今介護で必死で、付き添い用の弁当というのを数食分自作し、朝早く車で出かける。その必死さというか常人の倍タスクをこなす雰囲気を見ていると何も言えない。

揺れ動く自分。

訓練は決まったが、その受講後に待っている未来は地元で社畜労働。奨学金を返済し終えたら何が残るか。歳をとり、田舎で暮らす自分。
海外移住も子育てもフリーランスも新しい住まい方も経験せずにただ歳をとるなら、生き残ったことに意味はあるのかなど良くないことを考える。

なまじ難解な本を読むと停滞したときにしんどい。自分の気晴らしが下手なのは判っている。でも、読書や勉強がいくら有益でも、いや有益であればなおさら、その先、ここ以外の場所に出られないことがふがいなく悔しくてならない。

最近気づいたこと。

私には、家で一人の食事に対して、なるべく静かにスムーズにシンプルに無駄なく終えたいという欲求がある。家族とはできるだけ顔を合わせたくない。同席するとほぼ決まってそこにはテレビがつき、わずかなネットリテラシーのある人間なら瞬時に嘘と見破れる情報を拙い粉飾で放映しているのに居合わせるからだ。

私がいつも座る席はダイニングの奥側で、流しのある台所で作ったり盛り付けたりした料理をいちいちそこまで持ってゆくのが面倒だ。加えてテーブルを拭き、あるいは口を拭いたティッシュを捨てるためにちょいちょい席を立つ。その手間が無駄なので、一人で食事をつくり頂く時は、そのまま台所で立って食べている。

行儀が悪い、と言われるのは解っている。だがこのやり方は、思いのほか自分の手元に集中できる。視界に映る向かいの庭も隣のベランダ越しに見える空も、すべて自分の領界だ。


いつだったか、郊外へ自転車で散歩に出た折に、広い道でトラックが一時停止するのを見かけた。運転手は顔を上げて菓子パンをかじっている。運転マナーからいえば良くないことなのだが、この人のフロントガラス越しに見える風景はきっと自分だけの快適さがあるにちがいない。周りは麦畑か野原のだだっ広い中で、店に入る時間も省いて働かざるを得ない労働条件はもちろん問題だ。しかしこの人がこの風景の中で経験しているのは、誰にも邪魔されない自分の世界だろう。

私が台所から求めるのもたぶんこれと同じ経験だろう。

かつて住んでいた街には立食いそばの店があった。かき入れ時の昼休みに周囲には目もくれず食べた。その向かいにはビッグイシューを売る販売者さんが立っていた。雪の降る日も。
この光景は地元にはない。ないが、あの時と同じような行き詰まり方をしている今、同じような自分の世界をどうにかしてつくり出そうとあがいていこうと思います。

煮詰まらないために

ハローワークはえらい混みようだった。3月末で退職した人たちの失業認定日が集中しているのだろうか。立ち見者がいる位である。
私もその一人で無事手続きを終えた。

変わったことというのは、ない。なぜスーツ着て出かける日に限って雨なんだとか、良さげな求人を見つけ応募しようとしたら思わぬ制限があったとか、今さら振り返っても仕方ないが地元に居る自分というのが遮二無二許せなくて一切のやる気を失いかけたり。しかし今日、海外では注目する学者の研究で最新の集まりがあるとの報せを見つけて世界は広いのだ、数十円の時給と狭い日本の雇用事情など囚われるなと朝のトイレ掃除をしながら薄く開けた窓の日差しに思いをはせる。

なんで地元はどこへ行くにも動線が悪いのだろう。主要公共施設が中心街に集まっていないので何かのついでにふらっと立ち寄って情報を得る、ということができない。近いのは県庁市役所くらいで、運動公園もコミュニティセンターも職安もバラバラなところにある。JRと私鉄の駅は離れていて、それぞれ別のエリアを成す。

どうすれば、ここで生きていく覚悟みたいなものが生まれるんだろうか。高齢社会と生産人口の激減は全国で起きる、資金面を考えると一年はここ地元で暮らそうと、半月ほど前決めた(書いた)はずなのだが。

なんかもうふと気が緩むと自己否定の感情ばかり侵入してくる。仕事と介護に明け暮れる家族。言うことをきかない祖父母。シロアリが土台を食い破るように深刻な問題が蝕む社会なのに安穏としている周囲。

せめて一日のうち身の置き所を変えて移動するくらいしか煮詰まり回避の術を思いつけない。

例の奨学金返済方法はぶじ変更できたようなので、あとは融通をきかせて毎月決めた額を返せばいい。

で、それが終わったあと自分に残るものをいちいち問わない。自分や家族や国家がどうなっているかわからないのだから。


夜が来て急に冷え込んだ道を自転車で帰る。水路のほとりにドクダミのつぼみがのぞく。パウル・クレーの《夜の植物の生長》という絵を想起する。ほぼ無限と言えるほど多様な姿や可能性をもつ世界にあって、一人の人間が偶然、その場その時にその身を通して発見する一瞬の光景が無比であること。そうしてそれを見いだした自分という存在がまた、置き換えのきかないユニークネスな世界を開示することを、心に留めておきたいのです。

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写真は明るい人参の葉。麦畑を撮った近くで数年前、惹かれて写メに収めたものです。

一日と十年後

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祝福を。前職を辞めて1ヶ月と7日を経た、いわきびです。

連休は基本、在宅していた。夕方買い物や飲食に出るくらい。家に居ると、煮詰まる。その前に地元に居ると煮詰まる。眩しい青空が忌まわしい。どこかへ出かけてアクティブに活動して命を燃やしていなければ価値がないかのように思えてくる。今しか読めない本、外国語の記事や教材、手元に広げてもそれはたいしたスピードでは進まない。なにかアルバイトを、と検索するももうすぐ始まる職業訓練との兼ね合いから期間や時間帯が制限される。

その職業訓練もイマイチ納得のいかないことがある。地元に残るとしても最悪これなら次に繋がるだろうと、退職前さんざん調べて窓口で説明も聞いたコースの内容が、いざ4月、新年度になり今年の詳細を見てみると、最も自分がアテにしていたメニューが無くなっていた。ここ数年、ほぼ同じ中身で運営してきたコースがである。

いちばん手っ取り早いのは3ヶ月以内でも良いから派遣で働くことだが、周囲と折り合いがつかず、通勤コストが痛手だったりした。複数登録してあるので他社の紹介に乗るのもよいが…。

ーどうしてもっとよく考えてから辞めなかったのか。

家族に言われてもこれはちがう。さんざん動いて調べたのだが、ぜんぶ中途半端で結局ドツボへハマって今にいたる。それだけである。第一時給が低すぎて雇用保険給付もどんな額か想像がつくので考えたくない位の前職を続けていては、状況の変化などあり得なかっただろう。


自分の立ち位置、置かれた立場の定義がよくわからない。どこに焦点を合わせるべきか、時間軸が定まらない。

人間には二通りのタイプがあるという。

一つは、十年後、二十年後など遠い未来に目標を定め、それに近づくために日々活動することが向く人。

もう一つは、「いま・ここ」に視点を集中し、どうしたら毎日を楽しく生きられるかを考えて日々を過ごすことが適する人。

前者はビジネス系自己啓発本でよく紹介される姿勢で、何かを成し遂げたい人には大抵こちらのアドバイスがなされる。いわきびがこれまでの人生で影響を受けた人も、この姿勢をやたら推奨するタイプだった。

しかし、今から8年前、本当に身の振りが行き詰まった時に自分を救ってくれたのは、後者の姿勢だった。

やり方はわからないが動いてみる。一日の、その日でやれるタスクに集中して進んだら喜ぶ。進まなければ反省でもして待つ。その繰り返し。目覚めの時に目に映る光景が好い、料理がうまくいった、買い物したら店員の対応が良かったなど、すべての良いことを集めて肯定する。

それはふりかえれば一つの軌跡であり、それも独自の道である。

時間性を持たない神の創造とちがって、人間の制作や行動はどうしても意図と成果の間に時間差やズレが生じる。料理ひとつとっても、同じレシピでも作り手や技術の巧拙、季節や食材の状態によって全く同じものが出来るとは限らない。
願いの実現も同様で、来年や数年後など自分も周囲も変化するのだから、自分の望みなどどう変わるかわからない。

いまや、デザイン・イメージ・コンセプトと実現までの距離は最短化しつつある。技術の進歩によって。

しかし、何かが実現すること、事態が出来すること、行為が成立することのなかに満ちる偶然性に対して、より注意ぶかくありたいと思わないだろうか。

虚空をさまよう蔓植物の芽が、ふとした足場から無二の草姿を開示するように、その時その場の条件で成した行為の積み重ねが、誰とも置き換えのきかない生のフォルムを形作ることを、いま一度胸のかたすみに置いてみたいのです。

麦秋

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郊外では麦が色づいてきた。

藤は散りかけ、えんどうは次々実り、空豆はぐんぐん伸びる。

何のかんの言っているうちに季節は過ぎる。

人が伸びるのも衰えるのも、実はゆっくり徐々に、緩慢な営みなのかもしれない。


麦の色づき方は面白い。それぞれの敷地ごとに熟し方は異なり、同じ畑、一本の穂であっても色はまばらだ。成熟と未熟のあいだをさまようように、粒は少しずつ黄金色を増やしてゆく。

「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの実を結ぶべし」(『新約聖書ヨハネ福音書12:24)

この聖句はよく自己犠牲の肯定のように引用されるが、それはちがう。

「死」という言葉の強さに引きずられるのかもしれないが、文字通りの意味ではない。もし個人が、有限な人間世界の、自分の命にだけ固執すれば、命は「ただ一粒のまま」、ただ孤独なまま自己のうちにあがいて終わるだけである。しかしそうした執着をやめてそういう生き方を断ち、無限なる絶対的な命ーすなわち神ーに連なれば、「多くの実を結ぶ」。

だが、これまでどんなにか、自分の命や身体を使い、真に他者の役に立つ生き方を模索した人たちがいただろう。不器用だったのかもしれない、時代が悪かったのかもしれない、技術が追いつかなかったのかもしれない、しかしそれでも人として生まれながら他者と結びあえず、世界と和解し得ず死んでいった人たちはこの失われた二十年で数多いる。

それがずっと考え続けるテーマかどうかは知らない。3.11が起き、津波原発事故が起き、はては「東北だからまだ良かった」がまかり通っている。阪神淡路の時より情報や意見の発信は容易になったかしれないが、表象されなかったことに人々が目や耳を傾けないこと、その傲慢さをあらためて思う。

すべては一粒の命に。五月の地元を眺めつそう思う。


ビッグイシューから学んだこと


 ビッグイシューという雑誌をご存知でしょうか?ホームレスに仕事を提供し、自立を応援する事業として、ホームレス当事者が路上で販売する雑誌です。
定価は1冊350円、このうち180円が販売者の収入となります。最初の10冊は無料で販売者に提供され、その売り上げ売り上げ(3,500円)を元手に、以降は1冊170円で仕入れていく仕組みだそうです。

公式HPはこちら

ビッグイシュー日本版|ビッグイシュー日本とは


 扱うテーマはかなり多彩で、国内外の貧困対策、社会的困難を抱えた人たちへの支援や当事者の取組みはもちろん、新しい働き方、環境問題、原発問題、社会的企業オルタナティブ・ライフ、アート情報なども満載である。硬軟取り合わせた誌面になっています。

 2003年9月の創刊から現在まで一貫しているのは何を扱っても硬派雑誌にありがちな「上から目線」ではなく、いわば「低みから支える視点」があること。

 ビッグイシューでは、世間一般では偏見が根強く扱うにはセンシティブだった問題-たとえばひきこもり、精神疾患、若者の就職難・住宅難、アルコール・ギャンブル・薬物などの依存症、自殺をめぐることなど-を早くから特集で取り上げています。 

 関連記事は以下。

ひきこもりの最新記事はこちら
http://bigissue.jp/backnumber/bn305.html

薬物依存症の治療のいま
http://bigissue.jp/backnumber/bn158.html

べてるの家の取組みなど
http://bigissue.jp/backnumber/bn158.html

茶番化する就活問題
http://bigissue.jp/backnumber/bn158.html


 読み進めるにつれ、国内外ふくめて世界には本当にいろんな人がいるのだという当たり前の事実に気づかされます。それはオピニオン欄に顕著で、そこには非正規で働く人、求職中の人、定年退職して社会活動に目覚めた人、定年退職して再雇用で働く高齢者、子育て中の人、病気や障害をもつ人、外国籍の人からの意見が寄せられるのです。いわゆる「社会人」の定義などなく、社会なんてあきれるくらい雑多な人間の寄り集まりでできていることを実感できます。

 私がビッグイシューを買うようになったのは2008年秋。身の振りが行き詰り、手探りで就活を始めた頃でした。リーマンショック派遣村がマスメディアを賑わせ、貧困対策にスポットが当たったものの、今思えばそこから3.11前までは、非正規雇用で働くリスクと貧困に陥ることの悲惨さが煽られただけの時期だった気がします。そんな中ビッグイシューでは生活困難者が利用可能な制度や支援団体の紹介、また路上生活当事者の声も載せていました。

 現在、あの頃よりもスマホは普及し、SNSも多彩で使いやすくなり、個人による情報の受発信は飛躍的にたやすくなりました。有益な情報はネットを通してWeb上でたくさん拾うことができます。オルタナティブな情報を得るために、なにも紙媒体にこだわる理由は全くないのです。
 しかし、路上で手渡され自分で頁をめくる誌面からは、まぎれもなくその雑誌固有の世界が呈示されています。カラフルでアットホームで親しみやすい記事の筆致やデザインからは、ビッグイシューという雑誌を通してのみ出会い味わうことのできる居心地の良さ-たとえ自分がどれだけ社会的に排除されているように感じても、世界には受け皿がいろいろあるし、支援団体も制度も声を出す場もあるのだという-を受け取ることができるのです。

 なお、ビッグイシューへの批判は昔から多々ありますが、ここでは記しません。貧困対策に万能薬はなく、困難に陥った人たちの生活再建と尊厳回復に必要な支援はそれぞれ異なり、この雑誌販売はその一つにすぎません。

批判に対する丁寧な反論はこちらで読むことができます。

http://lite.blogos.com/article/102073/


 路上販売が行われていない地域にお住まいの方も、ところによっては図書館の雑誌コーナーに置いてあるようです。一度手にとってみてはいかがでしょうか。