いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を変えたく奮闘中。人生の時間比率は自分仕様に!

ビッグイシューから学んだこと


 ビッグイシューという雑誌をご存知でしょうか?ホームレスに仕事を提供し、自立を応援する事業として、ホームレス当事者が路上で販売する雑誌です。
定価は1冊350円、このうち180円が販売者の収入となります。最初の10冊は無料で販売者に提供され、その売り上げ売り上げ(3,500円)を元手に、以降は1冊170円で仕入れていく仕組みだそうです。

公式HPはこちら

ビッグイシュー日本版|ビッグイシュー日本とは


 扱うテーマはかなり多彩で、国内外の貧困対策、社会的困難を抱えた人たちへの支援や当事者の取組みはもちろん、新しい働き方、環境問題、原発問題、社会的企業オルタナティブ・ライフ、アート情報なども満載である。硬軟取り合わせた誌面になっています。

 2003年9月の創刊から現在まで一貫しているのは何を扱っても硬派雑誌にありがちな「上から目線」ではなく、いわば「低みから支える視点」があること。

 ビッグイシューでは、世間一般では偏見が根強く扱うにはセンシティブだった問題-たとえばひきこもり、精神疾患、若者の就職難・住宅難、アルコール・ギャンブル・薬物などの依存症、自殺をめぐることなど-を早くから特集で取り上げています。 

 関連記事は以下。

ひきこもりの最新記事はこちら
http://bigissue.jp/backnumber/bn305.html

薬物依存症の治療のいま
http://bigissue.jp/backnumber/bn158.html

べてるの家の取組みなど
http://bigissue.jp/backnumber/bn158.html

茶番化する就活問題
http://bigissue.jp/backnumber/bn158.html


 読み進めるにつれ、国内外ふくめて世界には本当にいろんな人がいるのだという当たり前の事実に気づかされます。それはオピニオン欄に顕著で、そこには非正規で働く人、求職中の人、定年退職して社会活動に目覚めた人、定年退職して再雇用で働く高齢者、子育て中の人、病気や障害をもつ人、外国籍の人からの意見が寄せられるのです。いわゆる「社会人」の定義などなく、社会なんてあきれるくらい雑多な人間の寄り集まりでできていることを実感できます。

 私がビッグイシューを買うようになったのは2008年秋。身の振りが行き詰り、手探りで就活を始めた頃でした。リーマンショック派遣村がマスメディアを賑わせ、貧困対策にスポットが当たったものの、今思えばそこから3.11前までは、非正規雇用で働くリスクと貧困に陥ることの悲惨さが煽られただけの時期だった気がします。そんな中ビッグイシューでは生活困難者が利用可能な制度や支援団体の紹介、また路上生活当事者の声も載せていました。

 現在、あの頃よりもスマホは普及し、SNSも多彩で使いやすくなり、個人による情報の受発信は飛躍的にたやすくなりました。有益な情報はネットを通してWeb上でたくさん拾うことができます。オルタナティブな情報を得るために、なにも紙媒体にこだわる理由は全くないのです。
 しかし、路上で手渡され自分で頁をめくる誌面からは、まぎれもなくその雑誌固有の世界が呈示されています。カラフルでアットホームで親しみやすい記事の筆致やデザインからは、ビッグイシューという雑誌を通してのみ出会い味わうことのできる居心地の良さ-たとえ自分がどれだけ社会的に排除されているように感じても、世界には受け皿がいろいろあるし、支援団体も制度も声を出す場もあるのだという-を受け取ることができるのです。

 なお、ビッグイシューへの批判は昔から多々ありますが、ここでは記しません。貧困対策に万能薬はなく、困難に陥った人たちの生活再建と尊厳回復に必要な支援はそれぞれ異なり、この雑誌販売はその一つにすぎません。

批判に対する丁寧な反論はこちらで読むことができます。

http://lite.blogos.com/article/102073/


 路上販売が行われていない地域にお住まいの方も、ところによっては図書館の雑誌コーナーに置いてあるようです。一度手にとってみてはいかがでしょうか。

いまの私とオルタナティブ

祝福を。

今日は、母が少し体調を崩していて家事掃除を一通り済ませてから夕方外出した。両親はいま親の介護で行ったり来たりを繰り返しており、母はそれプラス、パートもかけ持ち中。昨夜はその集まりに出て遅く帰宅し、朝目覚めるとダウン、とあいなった次第。

連休中だけでも私が入ろうか?と提案したものの不要だと言われる。じつは昨年初夏に介護の件で大ゲンカして以来、いわきびは関わってない。そもそも車で1.5時間はかかる場所へ早朝運転して出ていくことじたいペーパードライバーの私には無理だし(とはいえ一時期教習所に通ってペーパー用コースをがんばった。が、自宅の敷地入れがどうしても難しく複雑な場所にあるのと、横に乗った親があまりにボロカス言うのでもうこの家の車は二度と運転したくない)、参加するなら経管栄養のチューブやオムツや体位の交換を覚える必要があり、一度や二度で慣れるもんでもなさそうだ。

そうこうしているうちに職業訓練の選考が近づくし、もし開講したら毎日あっという間だろうし、一年間もすぐ過ぎるだろう。母は久々に終日寝て過ごし、だいぶ良くなり明日には出勤するつもりらしい。両親は今のところ仲良く元気に親の介護をやっているが、いつ何が起きるか、もしもの時のことも覚悟を決めている。ここで暮らすと決めた以上、わたしが介護を担うこともありうる。


田舎暮らし、地方移住、ノマドワーク、フリーランス… それらはみないわば広義のオルタナティブ・ライフに連なる。首都圏生活を相対化し、日本以外にも視野を広げ、会社に縛られず、正社員に執着せずむしろあえて非正規で融通のきく働き方を選び、賃労働とライフワークを分け、ヘテロ・セクシャル前提の法律婚にも血のつながった子どもをもうけることにもこだわらない。

私もそれらに共鳴するし、自分もそうしたくて秋から奮闘したものの、手放せたのは前職だけであった。三月下旬から四月にかけては何もかもうまくいかず嵐のようだった。が、いまの自分には机とPCと読み書きの時空間が有る。とくに難解・晦渋な本を読むこと、外国語の学習にはうってつけの環境が到来している。それらがモノになるか、結実するかは別として。しかしそれを言い出したら、たとえば大震災で生き残った意味もないとだれかに言われたらそれを受け入れるのだろうか。肯定したところで、生きるのをやめるつもりもないし、その必要もないし、そういう言説をはねつけてこその倫理なり文学なり哲学なりではないのか。

SNSは、人を煽るにはマスメディアよりずっと正確に狙い通りな効果を持つ。社畜を脱すること、個人で発信し稼ぐこと、単身生活を送り親との同居など論外、みたいな論調や流れはある。けれども私はここで、同じ価値観を持ち自分が賛同する味方にも「隷属しない」で居る大切さを自分に言い聞かす。どんなに正しく時代の活路となり、自分が理想にできる思想や人であっても、いまここに生きる自分への否定にしか機能しないなら、それはやっぱり距離を置いたほうがよいだろう。

初夏の陽射しが注ぐ中、空き家の草刈りに来た近所の人と挨拶する。家主が亡くなりもう三年が経つ家で、離れ住む御身内の方が暇を見て片付けに来たりシルバー人材センターの人を派遣したりしてようやく整った空き家である。わが家の介護問題ふくめ、地方の実情はこんな感じだ。

さあ風呂へ入って明日からの日々を生きよう。資金や体力面で負担のかかる移住よりも、いま地元・実家にいながらできる攻めの姿勢を、前へ進みながら探ってゆく。

若葉の街から

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快晴である。こんな日にお勤めでブラインドの開かない部屋で仕事をする人はほんとに気の毒だなと思うほどの日差しだ。

今日はとくにハロワへ用事もなく、バイトもなく、あえて外出する必要もないのだが、そろそろなくなりかけた野菜の買出しを兼ねて散歩に出た。温泉街を抜けて山辺のお寺付近へ。そこのファミマで一服している。

観光地に近いだけあって旅行者らしき人も多く、明らかにバックパッカーとおぼしき人もいる。もちろん近所の人もくる。カフェの奥で仕事だろうか、PCを叩く人もいる。軒下で会話に興じる男性客。さきほどインスタント焼きそばを食べ終えて去ったバックパッカーの座席分広くなったカウンターでいまこれを書いている。

時間はゆっくり流れている。楠若葉の合間からおびただしい量の紅葉が落ちる。山の新緑を縫うように藤が咲く。緑の影はしだいに濃くなり、来月にはもっと黒々としてくるだろう。

観光バスが行き来する。駐車場で小休止する人たちはスマホや書面に見入り、何か差し迫った自分の用事に没頭している。 様々な時間ぎ交差する。

じつはこの少し前、この場所とは正反対の方角にある河原を走っていたのだが、ふと家の鍵を忘れたことに気づいて慌てて引き返した。近道なので中心街を突っ切った折に、ふと信号待ちで前職の同僚に似た人と目が合った。一瞬だった。時間とは、各々に課せられた変化の一過程にすぎず、どんなひと時もある流れの一側面でしかない。気まずさも悔しさも喜びも、ただ生きている間のことである。

ぶじ鍵を取り、ふたたび戸外へ出るともうペダルは街へは向かわない。移ろう初夏のいましか経験できない若葉の匂いの中へ、私は身をうずめる。

数日前撮った新緑の城を思い出す。

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緑のあわいに刻まれる影と同じような、些末な営為であっても個々の人は風景の一部をなす。もはや世界を統べるほどの大きな物語や観点はなく、断片化した各々が調和を欠いた世界であがくような時代である。けれど、自ら世界と折り合い自分なりに信頼を築きなおす技法の探求にあっては、既存の制度や慣習の枠など放棄してよいのだと強く確信する。

Hans Blumenbergのこと

 
 祝福を。
今日は私の最も大切な哲学者・ハンス・ブルーメンベルク(Hans Blumenberg)をご紹介します。「隠喩学」(Metaphorologie)(メタフォロロギー)という概念のもとに、「絶対的メタファー」の変形によって表示される世界理解の変化をたどりつつ、哲学・神学・科学・美学・文学など広範な学問領域を自在かつ精緻に考察しながら、思想史を絶対的メタファーの変遷過程としてとらえた哲学者・思想史家です。

 プロフィールは法政大学出版局サイトより引用。

(Hans Blumenberg)
1920年ドイツのリューベックに生まれる。母はユダヤ人で、戦争中ナチスの迫害を避け身を隠していた家の娘と結婚する。キール大学で教授資格を取得、同大学を皮切りに、ハンブルク、ギーセン、ボッフム、ミュンスターの各大学で教鞭をとる。最も近い関係にある哲学者はカッシーラー。〈詩学と解釈学〉グループ(ギーセン)の創立メンバー。96年3月75歳で死去。代表作『近代の正統性』で、〈世俗化〉としての近代という一般的に認められていた歴史理解に根本的な異議申し立てを行い、近代の起源を中世との機能的連関の中で明らかにした。また、現代の自己理解の前提としての啓蒙主義の啓蒙というみずからのプロジェクトを、『コペルニクス的宇宙の生成』(75*)『神話の変奏』(79*)でさらに深化させた。80年、ドイツ言語文芸アカデミーの G. フロイト賞を受賞。独自の論理で哲学・神学・文学・科学を横断的に論じ、歴史理解の地平を比類なく拡大させたその仕事は、わが国では未知の巨峰と言って過言でない。他に、『テロルと遊び』(71共著)『観想者の破綻』(79)『世界の読解可能性』(81*)『トラキアの女の笑い』(87)『生活時間と世界時間』(86)『洞窟の出口』(88)などがある。(*は法政大学出版局で翻訳刊行)

 導入・入門書的な解説を読みたい方は、村井則夫氏による『人文学の可能性―言語・歴史・形象―』(知泉書館、2016年)をどうぞ。
https://www.amazon.co.jp/%E4%BA%BA%E6%96%87%E5%AD%A6%E3%81%AE%E5%8F%AF%E8%83%BD%E6%80%A7%E2%80%95%E8%A8%80%E8%AA%9E%E3%83%BB%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%83%BB%E5%BD%A2%E8%B1%A1-%E6%9D%91%E4%BA%95-%E5%89%87%E5%A4%AB/dp/4862852327


 彼の文章はとても難解なうえ学派として位置づけが難しいこともあり、日本ではあまりその存在は知られていませんでした。主著のヴォリュームは半端なものではなく、先述のように多様な学問分野を縦横に行き来するため、それなりの背景知識がなければ楽しむことは困難です。あちこちに散りばめられた鋭い論考を拾いつつ、自分が背景知識を持たないジャンルの一段落を理解するのに専門書を数冊ひもとくこともザラでした。

 しかしそのようなブルーメンベルク哲学を貫くのは、
「現実の絶対主義(Wirklichkeitsabsolitismus)からの解放」という主題です。メタファーや象徴、イメージの創出は、人間存在を脅かす現実の圧倒的な不条理や危機に対する応答として、現実の馴致に役立てられてきたという着想が根底にあります。

 科学の進展や技術の発達をきわめたかにみえる今日、未曾有の災害や事故は起き、人間の無意味さも無力も何ら解決していません。SNSに日々溢れる数多のイメージ、表象も、じつは理不尽な現実を自らの手玉にとれるものとしたい、世界を手中に収めたいという欲求の所産にさえ見えます。


 いま、彼の著作は大半がズーアカンプ(Suhrkamp)社より刊行されております。翻訳の出版もこの十年ほどでだいぶ進みました。

 初めて読みたい方へのイチオシはこれ!『われわれが生きている現実』(村井則夫訳、法政大学出版局、2014年)
http://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-01019-4.html

小論ながら彼の思想・主題が凝集されています。とりわけ筆者が瞠目したのは「自然の模倣ー創造的人間の理念とその前史」でした。

 短い論考ならこれも読みごたえアリです。『光の形而上学 真理のメタファーとしての光』(朝日出版社、1977年)。
https://www.amazon.co.jp/%E5%85%89%E3%81%AE%E5%BD%A2%E8%80%8C%E4%B8%8A%E5%AD%A6%E2%80%95%E7%9C%9F%E7%90%86%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%82%BF%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E5%85%89-1977%E5%B9%B4-%E3%82%A8%E3%83%94%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%BC%E5%8F%A2%E6%9B%B8-%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF/dp/B000J8Z58A


動画もあります。彼の論考をざっくり知りたいなら以下

ord.yahoo.co.jp


親しみやすいドキュメンタリーはこちら

ord.yahoo.co.jp



また1967年のラジオ講演もアップ中です。

ord.yahoo.co.jp


また、こちらのサイト
「STUDIA HUMANITATIS 人文諸学に惑溺するすべてのアマチュアのために」
http://book.geocities.jp/studia_humanitatis_jp/index.html

には少し前の出版事情や原語文献の情報が載っています。

「思想史の森へ 推薦図書」より
http://book.geocities.jp/studia_humanitatis_jp/HistorybookIV.html

「口舌の徒のために」より
http://book.geocities.jp/studia_humanitatis_jp/gewesen19.html

著作リストも。
http://book.geocities.jp/studia_humanitatis_jp/Blumenberg.html


最近の動向。
研究グループ「詩学と解釈学」についての記事。
https://www.nzz.ch/feuilleton/debatte-herrschaftsfreie-diskussion-aber-keine-kritische-theorie-ld.142840

サイト内の名前をクリックするとブルーメンベルク関連の別記事も読めます。
https://www.nzz.ch/feuilleton/buecher/eine-frage-der-belichtung-1.18578697


書籍。1945~58年に書かれた論考が出版されています。
http://culturmag.de/rubriken/buecher/hans-blumenberg-schriften-zur-literatur-1945-1958/100839


さる4月22日にはライプツィヒでシンポジウムが開催されたもようです。
blumenbergposthumous.blogspot.jp

 以上、忘備録を兼ねて情報をまとめました。マイナーな哲学者かもしれませんが、ぜひ一度触れてみてください。

家庭の有意味性を疑う

祝福を。静かな日々を過ごすいわきびです。

 日曜日に、4月初旬に応募し選考中だった地元求人はけっきょく不可の連絡をもらった。他に応募中の求人はあるものの、以来晴れて自由の身となった気分である。職業訓練の申込を終え、その選考と開講までは自分の時間を過ごすことにした。大した進捗はないが本を開き、また語学の学習を進める。

 とはいえ、家族はいま大変である。祖父と祖母の介護。母はそれに加え、もう十年以上かけもちでやっているパートの仕事。家事は私がやるにしても、じつは母のほうが何倍も動きが速くかつ炊事等のイニシアを執っているため、いわきびが着手するのはすでに在るベースの流れへ頻繁に手を入れるていどにすぎない。まあでもそれもよい。

 この歳になって、家庭とはまともに取り合うべき場ではないことをやっと自覚できるようになった。語弊のある表現だが、私にとって家庭とはまず理論が絶対的に通用しない場である。感情と慣習による支配と、あらゆる世俗的なものの集約。その場を和ませ取り繕うために、自らを曲げて愚かな言動をとり、笑いを誘い、チープな食物やテレビや日用品といった明らかに価値がないと解っているトピックを(あるいは複雑で深刻な社会問題をも)世間話のネタにし消費することが必要な、どうしようもない場である。そんな場を、戦後日本は高度経済成長に乗じてすべての人に作る機会を与えてきた。

 近代化以前あるいは明治初期には、生涯独身で過ごす人も一定数いたらしい。それが当時の社会規範に沿うか、生きやすいものかは別として、「国民皆結婚」は常識でもなんでもないことが下記の本を読めば解るだろう。

Amazon CAPTCHA

 思うに生涯未婚率含め、結婚しない人の割合が増えるのは、収入の不安定さや子育ての経済負担が大きいこと以上に、結婚を世話する力というか、いわば結婚の「膳立て」能力を、社会も世間も家庭も会社も持たなくなったことが大きな原因だろう。仲人をやれるだけの度量をいま何割の夫婦が持つだろう。家と家の結びつきが重視された時代に高度な処世能力を要求されるのは、結婚する当人よりもむしろ仲人のほうだと思う。昔なら結婚話など適齢期に親や親戚が勝手に進めて、当人は見合い写真だけ見せられて対面は結婚式当日、という例も数多あったろうし、そのばあい夫婦関係はゼロからのスタートだ。だが仲人は、すでに一定の家風がある両家を納得させ、釣り合うように話をうまく収める関係調整技術が要る。バカ正直ではやってられないだろう。

 近年の上の世代を見ていてつくづく危険だと思うのは、子ども、広く次世代はまるで雑草のように時期がくれば勝手に生え、花咲き実を結び、放っておけば再生産もしぜんにするだろう、という前提を持っていることである。そこには意識的は愛の傾注も(愛とは意志の営みである)、忍耐と表裏一体の信頼をもった接し方も、成長を促すためにあえて手を引いたり口を出したりすることを含む教育技術の要請も、ない。教育が「目的意識的な統御」だと自覚する機会をもたずに育ってこられた世代なのだ。
「努力すれば良い暮らしが手に入る」や「良い学校→良い就職」、「働けば食べていける」という前提が通用したのは、日本の企業社会や日本型雇用慣行がそういう前提を成り立たせるだけのシステムを機能させていたからである。それらが解体した今、人材養成のコスト—手間や金銭負担や忍耐力-を放棄して「即戦力」だけ求めれば、後継者などいなくなるのが当然である。

 家庭をつくる契機も条件もコストも消失しつつあるいまのこの国。それが悲惨だの憂うべきだのとは思わない。人は誰かに許されて生きているのではないし、お家存続の手段でも、遺伝子の乗り物でもない。大切なのは個人の眼に映る世界、肌を通して知覚される情報を通して結ばれる像、生きられる時間にほかならない。

斜陽の国から

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祝福を。写真は夕暮れと若葉。

相変わらずのいわきびです。待機期間は明けたものの、選考途中で止まっている地元求人からは連絡がなく、県外求人は落ち、4月も下旬に突入しつつある。今日はまた一つ地元求人へ応募。先週月曜は先月分の給与が振り込まれたので少しホッとする。

例の奨学金返済方法は、月賦のみへの変更を機構に伝え、申込用紙送付をお願いした。後日確認のため職員から電話が来ることになっていたがまだ来ない。申込手続きは、適用月の2ヶ月前に済ませることになっているため、早く手続きしたいのだが。

家庭も、とくに良いことは起きてない。祖父がまた入院・手術し、また親が付添をしている。

求人を見ながらつくづく介護求人の多さに感嘆する。今の高齢社会は人口コーホートの問題で、生産人口の絶対数に対して老齢人口が爆発的に増えていく。 新たに子どもが生まれても、その面倒をみつつ、何らかの形で高齢者のケアに携わることになる。生産人口以外の人口ー子どもや高齢者ーは、ケア・サービスを必要とするが、サービスの提供者ではない。介護や保育などケアを必要とする人は増えても、ケアを提供する側の絶対数が足りなくなる。高度成長で拡大した日本経済は、いまやその規模を維持するだけの労働力を確保できなくなっている。いま起きてる人手不足はそういう事象だ。

お金を稼ぐ人も、使う人も減る。お金が回らなくなり、経済規模は縮小せざるをえない。稼ぎたい働きたいと思っても育児と介護でフルタイムは無理、少なくともかつての「企業戦士」な働き方をできる人がいなくなる。人手をかき集めようと時給を上げようにもコスト削減したギリギリの予算では人件費に限りがあるし、経済規模が小さくなればやはりそれじたい難しくなる。

こういうことが、日本中で起きる。大都市でも地方中堅都市でも僻地でも。人手を必要とする側と人手を提供する側の比率がとんでもなく不均衡になる。AIやロボットなど技術化を進めることが上策のように指摘されるけれど、ケア労働が扱う対象とは不条理でかつ一枚岩でない人間の感情と、いまだ/もはや制御しえない身体だ。医療行為ともまた違う。はたして技術化の対象とするのは適切だろうか。

人手補充として移民受け入れは必須だろう。しかしこの差別と封建制井の中の蛙な人々の国で、外国人労働者を働かせること自体申し訳ない。そんな国へ、募集したからといってまともな人が喜んで来るだろうか。もう日本が買い叩かれる側の斜陽国だというのに。

もう一度記す。労働力不足は日本中で起きる。だったら、別に地元で生きても同じではないか。今日は初めてそう考えた。ここで生きて、また情勢が変わるまで読み書きと発信を続けて、ネットを通じて同じ志を持つひとたと交流する。国外もわやな情勢である。日本を出たから良いとかどうとかいう問題でもない。
ほんの少しだけ、ここで生きている自分を肯定する兆しが見えたような、夕方の散歩であった。

生産と消費、与えと受けとり

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祝福を。

実はこのブログ、ほとんどがスマホからの投稿であり、写真の掲載や紹介したいサイトのURL貼り付け位しか自分で工夫する余地がない。情報の詳細、過去記事の引用、文字の編集など記事を自分仕様に編集する作業はやっぱりPCからでないとできない。

あれほどこだわっていた自分の机は愛用しているけれど、レジメを作ったり文章を書いたりという「生産」に関わる作業はあまりできていない。身の振りがいまいち定まらず(過日出した県外求人は今日書類選考で不可の連絡が来た。地元求人からは音沙汰なし)落ち着かないせいもあるが、前回の失業期間と違って金銭問題ゆえに夢も抱けない状況で失意に腐りかけているせいでもある。

スマホばかりでパソコンを使えない若い人がいる、と嘆く声をSNSでよく見る。困るだろうなあとは思う。スマホは便利だがあくまで消費の道具であり、自ら目的的意識的に何かを発信しようと思ったらパソコンからでないと無理だ。
だが、彼らの親世代は使えるとしたら仕事上必要でパソコンを覚えた人たちだろうし、当時はパソコンは高級品だったし、携帯、パソコン含む通信機器全般を贅沢品と思ってる人もまたわんさか居るし、そういう家庭に育ったらいったいパソコンの操作をどこで覚えるのか?スキルを習得する機会がそもそも一律に公的に保障されているのか?されてないならPC使えない若者は機会を奪われた被害者ではないかと私は考える。


ところで、生産と消費はそんなにきっちりとその境界線を引けるものなのだろうか。もの作りや、製品の製造、作品の制作なら比較的簡単かもしれない。労働は?お金を稼ぐ側と、ただ使うだけの側。これはハッキリ分けられそうだが、上客によるお店での消費は、良い品を選び、良い雰囲気を創り、善の拡散につとめ、その業界の健全な市場形成に貢献しているかもしれない。これは一つの生産と言い得よう。

生産と消費、産出と享受。やや拡げて、与えることと受けとること。一般に、価値をもつとされるのは後者より前者である。しかし、何かを〈つくる〉行為において常に先にあるのは後者の方ー「受けとること」の方である。人間が行い得る〈つくる〉とは、しょせん既存の何かに変化を加え、またそれらを組み合わせ、相互作用や化学反応によって、新たな別の何かを出現させることである。そのためにはまず、何かが〈在る〉ことを認めること、気づくこと、発見することが全てに先立つはずだ。

だから大切なのは〈在る〉(それがいつからか、という時間性の問題はともかく)を見出す力である。これまで在ったにもかかわらず、誰にも見いだされることなく埋もれていた何かを見つけ出すこと、それも他ならぬある特定の個人その人の、自己自身を通してでなければ見出されなかった何か。新たな、固有の世界はここにおいてこそ像を結ぶ。ゆえに、「受けとること」、人間の受動性が全ての起点だと私は考える。

むろん、その作品に形(言語なり画像なり表象)を付与し、発信するには技術が必要である。 何かが見出され、それが先在しなかった、新たな、価値ある何かであっても、発信されることなく泡のごとく消えていった、そんな作品は数多あるのだろう。

ただ、現代のSNSの発達と成熟は個人の発信を飛躍的に容易化した。毎日溢れるほど、発信者の眼や手や身体を経た文章や画像(これはスマホやデジカメのフレームを通して)が出回っている。イメージの氾濫。これ以上存在者を増やしてどうするんだろう、という気もする。

写真は先週末の河原。淀みのない、様々な時間の交差する一角です。