いわきび、森の明るみへ

四国の片隅から働き方や住まい方を再考しています。人生の時間比率は自分仕様に!

資金問題ふたたび

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人生の時間比率は自分仕様に!
これを第一の目的に転職・移住・転居計画を企てたはずであった。

それが、何かもう何を選んでも自分の意図しない方向へコトが進んでいき、何が自分の望みかもわからなくなりかけている。

奨学金の返済。これはうまくいけば年度内〜1年半後に完済の見通しが立ったちめ今回仕事を辞めたのだが。

いわきびは日本学生支援機構からの貸与で、月賦と半年賦を併用している。繰上げ返済を繰り返してやっとここまで来たのだけれど、昨夜そろそろ今月の繰上申込をネットでしようとしたら、新たな問題に直面した。

月賦、半年賦がどういうものかは以下。

日本学生支援機構/割賦方法
http://www.jasso.go.jp/sp/shogakukin/henkan/houhou/kappu.html

奨学金ガイド/奨学金の返済方法(1)
http://www.syougakukin.net/repayment/method.html

奨学金の割賦方法/「アラサー男の奨学金返済日記」http://student-loan.hatenablog.com/より
http://student-loan.hatenablog.com/entry/2016/12/03/024021

このまま月々にできる限りの繰上げを続けていくと、あと数ヶ月で半年賦分の金額だけが残ってしまう。で、そうなると毎月の返済額が半年賦分なのか、それとも1月と7月だけなのか、繰上げは2ヶ月以上からなのか。月曜になったら機構に電話して聞いてみなければ。月賦のみにできるならその方が繰上げするばあいも融通がきく。

なので、結局今月の繰上げ金額は数回分とやや少額にした。もしかしたら県外への就活で旅費や引越費用がかかるかもしれないし、だいいち今失業中なのに手元金をそうそう減らすのは危険だからだ。

写真は河原の楠若葉。桜は散りかけですが、しかし人は皆その下でそれぞれのひと時を楽しんでいるようです。

静かなひと時

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祝福を。路傍の寄植えです。イタリアンパセリとサニーレタスでしょうか。

雇用保険受給の待機期間中であり、かつ応募した事業所からも連絡が来ないため、動けない数日を過ごしている。待機7日間働いちゃダメなのはもちろんだが、選考の呼び出しを考えると旅行や遠出も躊躇が生じ、バイトの応募もできない。何とも中途半端で落ち着かない。まとまった時間があるのかないのか、机に向かってもなかなか集中できていない。そんな時に派遣登録した際使用可能になったeラーニングでスキルアップ講座でもやったら良いのだが(1セッション5分以内のものからあるんだし)、ちょっとそういう気分ではない。

そんな中両親は介護で忙しくしている。台所や風呂場はそんな両親のために優先的に空けておかなくてはならない。出払ってしまえば静かな家の中に、独りでいるとやはり時間の停滞を感じる。

玄関の外で、鉢植えの花ガラをむしる。近隣の家はもうリタイアした年齢の方が多く、私とたぶん同年代の人も住んでいるもようだがどうやら夜勤有りの仕事らしく朝早く帰宅される。平日昼にあまり家の周りに姿を見せたくないのだが、でも考えてみれば朝起きて午前中は自室の窓を空けているし、そこから臨む山や温泉街もなかなか面白いし、当たり前ながら街中の仕事場とは全く違う時間が流れている。

この街は、時に禍々しいくらいのどかだ。どんなに凄惨な事態が水面下で起きていようと、表面上は溢れる日射しと柔らかな草花の中で丁寧な暮らしが紡がれてあるように見える。

結局、もう何度もひもといた最愛の哲学書を通読する。ここから先へ進まねば、と思うけれど、読み通した後何もまとめていない文献がいくらもあるし、そういうやりかけのものに着手するのに良い時期なのだろう。

寝床で書いていたらこんな時間になった。みなさま良い週末を。

ある求人のこと

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祝福を。

このところ、自分の持ってる資格を生かせる(応募資格にその資格所持が条件になっている)求人に応募している。今日も県外で2件ほど見つけ、うち1件は土曜必着なので早速応募した。それで今日の午後は書類作成で終わり、郵便局の夜間窓口で提出を終えていまひと息。

それにしても、いま4月半ばである。この時期ってふつう入社式してるか、来年度4月採用の応募を新卒者向けにかけてるか、臨時や契約の募集をするかではないのか?という思い込みが私にはあった。こんな時期に正社員や要資格で給与そこそこの契約・嘱託の募集をするなんて、ブラックか、何か事情があって人が辞めていくかワケありなんじゃないだろうか。

でも、ひと月位遠ざかっていたその資格の全国求人を見ると、この時期どんどん“new”がアップされている。わからないものだ。しかも非正規でも契約職員で月給16万以上とか賞与ありとか、それだけ見ればかなりの好待遇である。なら、応募しない手はない。雇用保険はあくまで次の就職のためだし職業訓練は申込後に就職決定したら辞退も退校もOKだし、応募しないことには可能を現実にする手立てなどないので、動いてみる。書類選考で落とされる可能性も大だし、秋から転職活動を始めて最終選考進出もサイトから応募も含めて不採用だった数はたぶん両手足の指超えるのでは?でもそんなもんです就活なんて。

今から7年前、長い学生時代に終止符を打つべく、新卒者がやる就活の中身も解らず、同世代と「足並み揃えて」ではないスタートから公務員試験→教採(主に私学)→上位免許取得→他学部で単位取得と、曲折も経て進んだ頃と比べたら選択肢がある(自分に応募可な求人がある)だけで救いに思える。

昨年、はてなではないブログで、長い間フリーでイラストの仕事をしてきた女性が39歳で福祉職員へ転職したことを知った。人生何がどう転ぶかわからない。何が強みで何が弱みかも情況しだいで変転する。

まあ本当にどうなるかわからないけれど、決まりそうだった二週間前派遣の仕事の報告をした時は白けた態度で拒絶と無関心を示した親も、これら求人の話には何だか色めき立った様子なのをみて、田舎の人はつくづく十五年位前の古い幻想世界を生きてるんだなあとか、反応を面白く感じている。

何で親に話すかというと前に転職なり移転なりの構想を家族に相談しないことをネチネチ咎められ、これがアパート契約の保証人問題に響くことがわかったゆえの伏線である。なるべく核心は言わない。仕事はたかだか賃労働、生涯の仕事のことは、激昂してもなるべく漏らさないように、と思っている。とにかくしぶとくやりたい。

写真は芽吹いたモミジバフウ。あんな小さな芽でも、世界を把持しようと懸命な様子です。

いわきび、待機期間中へ

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祝福を。

昨夜帰宅すると離職票が届いていたので、今日は雇用保険の手続きに行ってまいりました。

懸念していた給付制限は今回なく、7日間の待機期間を終えたらすぐ受給できるもよう。
手続きはあっさり終わり、あとは今月下旬の雇用保険説明会に参加するだけとなった。


その足で、すぐ役所の国保年金課へ行き、年金の免除申請をした。

国保とちがって国民年金は「失業=収入がない」状態であれば免除申請ができる。退職理由は関係ない。自己都合でも会社都合でも、とにかく離職を確認できるもの(離職票、orそのコピー、or雇用保険受給資格者証)と年金手帳、マイナンバーを確認できる書類を窓口で見せればOK。免除とはいえいったん国民年金への加入手続きをしたことになるため、先に納付書が家に送られてくるがこれは無視してかまわない。追って免除の通知が届くという。

役所を出るともう何もする気がしない。考えるのも嫌。自転車をこぐ足は河原へ向かい、やがて市外へ。冒頭の写真は河原と馬小屋。

麦畑。
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河口から浜辺へ連なる一帯。
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水鳥が波打ち際で羽をばたつかせる。

夕陽に向かって自分と世界との一体化をめざそうとするランナーがいる。

バケツと虫取り網を下げて無心に歩く子ども。

今年限りの桜を収めようとスマホをかざす女性。

犬を散歩させる男性。

散りかけの桜が連なる沿道の内側は工場が稼働している。

いくつもの時間が交差する浜辺。

ふだん行くことのない海辺を散歩する機会が持てて、こういうひと時も悪くないなあと思うのでした。

古巣眺めて

終日雨で底冷えのするなか外出してきた。いくつか応募中である案件の、いわば予習のため。

神社の沿道も学園構内も桜が盛りである。散りかかる花びらと、わずかに吹き始めた若葉の下を、若い学生さんたちが歓声をあげて通る。サークル等への勧誘を兼ねたコンパもこの時期なので、春の嵐みたいな今夜でも街の飲食店は賑わっているのだろう。

私が大学生だった頃、学生の私生活やコミュニティというのはもっと猥雑で生活臭があって、放埓で、堕落とワンセットで、ドロドロしたものだった。サークルや同好会などの学生コミュニティには悪しき体育会系文化をそのまま再生産しているものもあり、なるほど今でいうブラック企業の成員としてうってつけの人材を育てる場だったのだなあと感慨深い。アルハラあり、文系でも体育会系のノリと企業文化の縮図ありで「昔は良かった」などとは決して言えたものではない。

留年者はゴロゴロいた。 そうなると郷里の親も怒って仕送りを止めるので、5年生以上は大抵バイトかけもちで生計をつなぐ。 休学者もけっこういた。不本意入学者も多かったし、生活や将来への疑問や人間関係の行き詰まり等々が重なって「引きこもり」状態になってしまう人もいる。

でもそれらは皆、学生時代という期間に特有の、大学というコミュニティが始まって以来もともとあったか切り離せない問題群として認識されている様子だった。私が学生だった当時なら、その認識も間違いではなかったろう。私の3学年ほど上の世代ならどんなにハメを外して留年しても、新卒一括採用レールに乗れれば職業人生をスタートできた。学校から社会への移行の受け皿は、何だかんだで今より機能していた。しかし、そう見えるのは表向きの規範であって、実際は既存の枠組みからこぼれ落ちる人は当時もいた。

失われた二十年といえば話は通りやすいのだろうか。心身を疲弊させる就活、その果てに入った職場で過労から精神疾患を発したり、自殺したり、退職して次の行き場が無かったり、そういう人たちは確かに居た。当時の周囲の「社会人かくあるべき」の圧力、非正規雇用への蔑み、精神疾患への無理解、SNSの未成熟を併せると、時代の雰囲気からもその苦しみはどれほどだっただろう。

ひるがえって現在、若い世代の貧困や労働問題はもはや日常化し、高度経済成長前提の働き方やライフコースなどは若い人たちにとって相対化する対象となっている。働き方や雇用をめぐる状況は何一つ良くなってはいかいけれど、そういうおかしな体制、システムから離脱する回路や受け皿は2000年代より増えたといえる。

若い学生さんたちには、自分をとりまく社会や学校や親、バイト先、その他制度や常識をどんどん相対化してほしい。現行社会に参加に値する価値なんてないと思っていい。税収と労働力と保険料を巻き上げたいだけなんだから。。
そして、おかしなことから離脱した人の受け皿を増やすこと、別の価値観やコミュニティとつながる回路を作ること(これが地方では本当に難しい)を、私の世代はしてゆかなければ。

雨夜の枝垂桜を見られて、人生こういうひと時もあってよいなあと思ったいわきびでした。

人はみな桜の下で

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祝福を。

河原は日が暮れるにつれ冷えてきた。にもかかわらず、出店も街灯もろくにない堰堤へ皆敷物と食べ物を持って三々五々花見を始める。

私もその一人である。すぐ後ろに車道を控えた河原の緑道に連なる桜目当てにビールとアテを携えベンチへ。対岸にはスーパーがあり、橋を渡ればトイレも飲食物も困らない。

車のヘッドライト、マンションの明かりが目立つ時間帯になっても子連れやカップル客はひきもきらず来る。ボール遊びをしたり、写真を撮ったり、ペットと歩いたり。思い思いのスタイルで今を楽しんでいる。

気がつけば花の季節になっていた。転職活動と転居をめぐるあれこれで、あらゆる選択肢を試しては壁にぶつかり、別の道を試し、周囲の反対や資金難で方向を変えたり、その間職場の引継ぎと後始末をした。

条件が整うなら地元で暮らすことも厭わない。別に両親と同居することも、こちらに家があって地に足をつけた暮らしを送ることも、それ自体恥ではない。

ただ、それをしたらせっかく知り合えた遠方のお友だちと縁が切れてしまいはしないか。もちろん私の意志も事情も知っていて、今回の一連の出来事をよく分かってくれてはいるのだけれど。

ここへきて、ようやく自分の限界を冷静に見極めてはいる。無茶をする気などない。ないが、「人生は一度きり」「どこへでも行ける」「環境を変えるべき」などの意見をSNSで見るにつけ、自分の今の立場はどのように肯定されるべきなのだろうと思ってしまう。

花明かりは好い。酔いも回る。しかし、私の心中は妙に冷静でもあって、何かしらの情感に浸ることを拒否する自分がいる。

実家で暮らし地元で働きながら作れる「攻め」の体勢とは何か?勝てる市場をどう作るか?こんな問いを完全に放棄することはできないいわきびなのでした。

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参加に値するつながりについて

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祝福を。写真は雨上がりの山桜。

両親はでかけ、家に一人のいわきびです。

この一週間はジェットコースターのようで、いけると思った選択肢がダメだったり、数ヶ月前から予測していたことが外れたり、自分が除外していた選択肢に合致する求人があって応募してみたり。人生ではそんな時があって当然なのだけど、私がイヤだったのは、あの何も手につかない、何をしていても落ち着かない、せっかく一人の時間が持てたのに肝心の自分の内面は嵐のようにネガティブな感情で荒れ狂っているひと時だ。

本のページに目を落とす。文章を追い、その世界に呼吸を合わせようとする。が、そこれ没入することを引き止める自分がいる。

そういうことをしていては外の時間と切断されてしまう。外の世界との接点が消え、どうあがいても小さな枝一本つかむことができず、世の中の淵から落ちてしまうー。

実際にはいま周囲には求人が溢れ、自分の向き不向きや割に合う・食べていける収入かはともかく、労働を通した「社会参加」(と書いてみてもうこの概念が古びているなあと感じる。参加に値しない社会はいくら包摂の網目をかけても構成員は逃げていく)の回路は至る所にある。

働く側に利益が大きいかどうかは別として需給バランスだけ見たら「人手不足」「売り手市場」はどうやら事実だ、と転職活動開始から5ヶ月を経て実感する。この時代でも有求倍率0.18だか0.26だかとにかく求人1件に対して応募者4人と言われる事務職をやっていたいわきびに今ひとつ実感ぎ湧かなかっただけのことである。

働き方改革。何を今さら感の強いこのフレーズには、個々人がもつ有限な時間の配分を、どうにかしてその人自身ではなく社会や国家の側に都合よくこねくり回して与えようという企てがある。一日は24時間しかない。たとえ世界が複数あろうと、どんなに合理化を進めようと、物理的時間の有限性は厳としてある。子育てや介護をしながら会社の都合で残業や長時間労働をするのは無理である。その無理を通せたのは生産人口が大量にいて、働こうがどうしようが家事ケア雑務を引き受ける立場(多くは女性)に全て押しつけ、そうすることが前提の制度設計だったからだ。

働け、稼げ、消費しろ、モノを買え、子どもをつくれ、介護も忘れずに。そう言われてたらそのうちのどれかを、あるいは全てを放棄したくなる層がいても不思議はないし、実際増えている。先日発表された生涯未婚率の数値はその一端でもあるだろう。

「社会的つながり」という言葉が若者支援でさかんに使われ重要視された時期があったけれども、今の時代はそれも嘘くさいと思うのです。なぜなら、既存の社会に紐帯のくびきをつけられ、その網目に包摂するよりも、実のところそれ以外のコミュニティやつながりを思いもよらない形式で形成することが、現在では可能だからです。

今から十年前、 SNSは今ほど成熟していなかった。使い手の数も限られ、使い方もあまり融通がきかず、使う側のルールやマナーもまだ形成途中の段階にあったように思う。機械・ネット音痴ないわきびの私見にすぎないが、あのアラブの春や、「紫陽花革命」だの言われたデモ集会のような事態は、良くも悪くも2007年には起こり得なかった。

若者の就職難や貧困、茶番な就活にブラック企業の実態に対する社会の理解は今よりずっと低かった。過労や、非正規or無職でいることへの圧力で心身を病んだり引きこもったり自殺したりしても、新聞の投稿欄で取り沙汰されるのは「残された気の毒な親」への共感が目立った。

でも、いまはちがう。いまや働かないこと、非正規雇用でいること、モノを持たないこと、少ないお金で暮らすこと、結婚はもちろん恋愛の価値にさえきちんと疑いをもつことを、積極的に選ぶ人たちが出てきた。マスメディアだけが情報源ではないし、それ以外の情報はネットで拾え、気軽に質疑応答もできるようになった。ブログサービスも使いやすいものが登場し、SNSの種類も増え、目的による使い分けも可能である。これらが十年前に普及していたら友人は死ななくてすんだかもしれないのに、という思いが募る。

そうこうしていたら小雨が降ったり止んだりの外も時間が過ぎていく。洗濯物は風呂場に干し終えたから、そうだ花見に行きたい。雨でも傘をさして安全な場所で、麦酒を味わいたい。私はこの先どこで何をしようと、自分の身体から知覚される世界を味わい、自分の立ち位置と世界がどのようであるかを探り、世界への信頼を築いていく。その過程を、時間ゆるす限りここへしたためるでしょう。